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デミアンの第1章に書いてあることが人生の全てだった。

私はとんでもなく阿保だから
ひらめきをくれるものにすぐのめり込んでしまう。
それってどういう意味?っていう言葉を投げかけてくれる文章が大好き。
「人は互いに理解することは出来ても、
自分のことしか知る事が出来ない。」
これは私にとって真実だと思う。
理解することと、他人をねじ伏せる行為はセットではない。
ねじ伏せた瞬間、それはその行為を起こした本人のエゴになる。
理解して、見守ること、それしか出来ない。
問題なのは自分自身の心だと思う。
心はどこにあるのか、本当の事を知るには
真に孤独になるしかない。
暗闇と無音に包まれて
心の声を聴くしかない。
生きるっていうのは、都会にでて一人暮らしすることではない。
自分の多くの欲求と真っ向から向かいあって、受け入れることだと思う。
それが出来ずに死んでいく人も、かなり多い。

自分と向き合う覚悟はあるのか
傷つく覚悟はあるのか
はたまた表面上の安心に浸り続けたいのか
それは全て自分次第。

向き合いつづけるのか、
向き合い傷つき、安心できる巣に戻るのか、
それも自分次第。

臆病な人ほど、恐れている。
なるようになったと考えてしまう。

なぜ恐れるのか考えたことがある?
きっと私の場合は多くのことを期待しているから。
期待することをやめたとき、私は穏やかな海に開放された。

愛情は見守ること。押し付けることではない。
気持ちが年中通じ合う必要もない。
もし通じ合った瞬間があるのなら、それを大切に頭に留めておけばいい。
人は神様がいるとか、いないとか極端な思考をしがち。
ある時はいて、ある時はいなかった。それでいいじゃない。

有難い事に私たちの脳は都合よく解釈できるようになっている。
だから嫌なことは忘れて、心地よい記憶だけ保持していればいい。
もっとかみ砕いて人間関係で言うなら、元恋人との楽しい記憶も現恋人との楽しい記憶も保持してていいってこと。
美味しいとこだけつまみ食いして、心地よい記憶のまま
いつか棺に入ればいい。
それが出来るのなら。

私は皮肉にもそんなことができない。
美化された思い出も、嫌だったことも、事細かく記憶している。
フラッシュバックも身震いも、発作も
何がトリガーだったのか、わからない。

そんな事を解き明かそうとする必要もないと私は感じている。

今日はこの辺で終わり。薬が効いてきたから。


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