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“哀れなるものたち”と小児科医 〜僕はダメだった〜

きつかった。始まりから終わりまで、訳が分からない嫌悪感をずっと感じながら映画を鑑賞したせいか、時間が果てしなく感じた。観終わって数日、ずっとあの気持ち悪さの理由を考えた末、ようやくそれが分かったのでここに書こうと思う。

私の感想

“身体は大人、脳みそは子ども”と聞くと、僕は自動的にベラを幼児として捉えてしまう。両足を開き気味に立ち、よちよちな歩き方、喃語〜有意語が出始めたロンドン時代のベラは1歳半から2歳。いってても3歳。そんな子が自慰を覚えて、それに耽ることへの違和感。実際に幼児でも自慰をすることはあるが、野菜を使う子を見たことはない。まあ、それは百歩譲って良しとして、そんな幼児に恋愛感情を抱く医学生のマックスにまずジャブを撃たれ、さらにはベラを性の対象として見る弁護士ダンカンが彼女を連れ出したところで一度めのダウンを奪われた。たとえベラの身体が大人でもそれとこれとは別だった。中身が子どもでも身体が大人だったら、それは大人として扱うとか、そんなことないよね。

本来なら親と分離する事も困難な年代のベラが「外の世界が見たい!」と言うのには違和感があるが、さらによりによってダンカンと行かせてしまった大人たちの愚かさに絶句した。どう考えてもダンカンの行為は幼児誘拐だ。そして、繰り広げられるリスボンでのセックス三昧の日々。僕は完全にノックダウンして立つことができず、吐きそうになった。いや、少し吐いた。ベラがセックスを“熱烈ジャンプ”と言ってしまうのはグルーミングによるもの。「性交や猥褻な行為をすることを目的に、未成年の子どもと親しくなり、信頼など感情的なつながりを築き、手なずけ、子どもの性的虐待への抵抗・妨害を低下させる行為」をグルーミングと呼ぶが、ダンカンの行動はまさにそれ。二人のセックスシーンが出てくるたびに嫌悪感は増すばかりだった。

まじで、ええ加減にせえよ。

私の心の声

仮にベラとは真逆の灰原哀が成人男性とそういうことになったとしたら、皆どう思うのだろうか、同じことやで、なども考えたりしたが、そもそもセックスシーンは必要だったのだろうか。しかもあんなに何遍も何遍も繰り返し…。

ほんっと、ええ加減にせえ。

私の心の声

ゴッドウィンのもとを離れた後のベラは前述のようにセックス三昧でろくに教育を受けさせてもらうことができず、成長しても生活のためには体を売ることしかできなかった(これってかなり悲しい話だと思うんだけど?)。こういう悲しい側面もきちんと描いてくれればまだ溜飲は下がったのだが、あのユニークな美術と音楽で彩られ、創造されたファンタジックな世界観がそれをぼかしてしまった。みんなが絶賛するあの世界をいかがわしくて禍々しいものに感じてしまったのはいうまでもない。後半、ベラの身体と心(認知機能)の年齢が釣り合うようになった頃(パリの後半)から、少しは観れるようになったが、それまでの2時間弱の長かったこと長かったこと。


本作は“女性の自立”について非常に上手く、そして力強く表現していると高い評価を受けているが、ベラへの成人男性による幼児誘拐、性的虐待、教育ネグレクトなどの重大な犯罪については、そもそも問題意識を持っているようにも見えなかった。それ言い出したら話が進まないし、そもそも原作があるし、、ってこと?

女性の自立ももちろん大事だけど、

子どもを一人の人間、一つの人格として扱ってほしい。

私の心の声。この映画に限らず、虐待に関わる仕事をし始めた頃からずっと思っていることです。


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