【コギトの本棚・エッセイ】 「地毛証明書」


とりあえず、何か書こうと思って、タイトルを『地毛証明書』とタイプしたところで、僕は途端にゲシュタルト崩壊しそうになっていることをここに報告せねばなりません。
『地毛証明書』
おそらくは、現在この頭から生えている毛髪が地毛であることを証明するための書類かと思われますが、パッと見ると、公証人役場(これがなにをするべき場なのか僕にはさっぱりわかりませんが)かなにかに提出するしかるべきお固い書類のような字面に見えてきて、ギョッとしてしまったからです。

最近緊張度の高いニュースが多い中で、個人的にこの『地毛証明書』には脱力させられました。
なにからなにまでが僕には理解できません。
別に憤っているわけではないし、けしからんともなんとも言いようがなく、ただ本当によくわからないうえ、不気味なものに触れたという感覚しかないのです。
『地毛証明書』、……これは不気味なものに触れて、力をすべて奪い取られてしまうような何かです。

そしてなぜ僕がこれを理解できないか考えていると、その理由が少しずつ分かってきました。
それは、僕が筋金入りの天然パーマだから……、ではありません。
世の学校には頭髪規定があるんですってね。
僕はこの事実を、実はこの歳になるまで知りませんでした。いや、知らなかったというとウソになります。おぼろげながら、そんなもんかなぁと知識としては持っていたのかもしれませんが、それを徹底的に意識せず生きてきたのです。

僕が通った中学高校にはそんなものありませんでした。これが大きな理由でしょう。
頭髪規定があったのかもしれませんが、生徒の誰一人、それを意識していなかったし、そもそも先生方が拘泥していませんでした。
長髪の先輩もたくさんいたし、髪の毛を染めてる人もいました。パーマをかけている生徒もいました。というか、思いだせば確かにいたなってくらい、普通にいました。で、それが世間的に「悪いこと」とは知らなかったのです。
身だしなみの観点から言っても、身だしなみのいい長髪も身だしなみの悪い長髪もいました。で、身だしなみの悪い長髪はカッコ悪い烙印を押され、身だしなみのいい長髪はカッコよかったもんです。
髪の毛の話題に関しては、ほとんどこのくらいで語りつくせてしまうくらいです。
だから、なぜ規定の頭髪でなければならないかというあらかじめ論理破たんしている問題に僕は一向にたどりつけないのです。
(あえて言えば、僕は天パだったので、サラサラストレートヘアにとてもあこがれを抱いていた、くらいでしょうか)

頭髪に関してこういう感じでしたから、まあ他のことに関しても、とにかく「自由」だったように思います。
勉強に関しても、する人はしたし、しない人はしませんでした。煙草を吸う人もいたし、吸わない人もいました。お酒を呑む人も呑まない人も、あとはここでは言えないようなことまでが、「自由」な雰囲気でした。
「不自由」なのは恋愛くらいだったでしょうか……。

思い返すと、変な話ですが、この「自由」ということを、時にうっとうしく感じていたような気もします。そして「不自由さ」を心のどこかで求めていたように感じます。

かつて日本の若者はこぞって髪を伸ばしたと言います。僕の父親くらいの世代ですね。
なぜ伸ばしたかというと、「反抗」のためです。
戦後、急速に民主化したと言っても日本はまだまだ文化的に硬直していました。そうした雰囲気に対する「反抗」です。
これって、ちょっとうらやましい気もするんです。
もう十分おじさんになってしまった僕らから見たら、こういう反抗ってガキのわがままにしか感じられず、あれこれ理由をつけて取り締まったりするんですが、本当は未熟だった過去の自分自身を見させられているみたいで、いたたまれないだけなんだと思います。
ガキ目線で考えれば、彼らの成長にはこうした「プロテスト」の瞬間が必要だったりするんですよね。
それは何もアクチュアルなプロテストである必要はないんです、というよりもアクチュアルなプロテストであってはならないと思います。(かつての学生運動や昨今のシールズを見ればわかります)
アクチュアルなプロテストではなく、むしろ反抗のための反抗、自己目的化した反抗、もしくは初期衝動が、少年の人格形成には必要なのではないかと、僕は考えたりしています。(言い換えれば、それを「青春」と呼んでもいいかもしれません。だから「学生運動」も「シールズ」も政治的正しさなんか叫ばないで、自ら「僕らは青春をしてるんだ!」と言うべきだったのでしょう。さらに言えば、おじさんが彼らの尻馬に乗ってホクホクしてるのを見ると、それこそいたたまれない気がしてきます。おじさんの青春ほど醜いものはないからです)

こう考えてみると、「地毛証明書」も案外、何かの役に立つかもしれません。
僕が経験しなかった不条理な、まったくどこにも正当性のない「不自由さ」の権化みたいな制度なのは確かなのですから、屈託なく「反抗」できるではないですか。

現代というものを考えるとき、僕はそれを周到に反抗の対象性を摘み取られていく世界だと感じます。多分、1995年、あるいは2001年あたりを境に、世の中が平板化し、反抗の余地がどんどんと削られていく世界になったのだと感じています。
となると、無邪気な少年少女の「反抗」性はどこへ向かえばいいのか……。
だから、例えば、「地毛証明書」というようなごくたまにぽっと出る、大人が摘み取り残した不条理を(とても逆説的な物言いだけど)大切にすべきだと思います。
あまつさえ、訳知り顔なおじさんたちの、「人権ガー」「差別ガー」「君たちは悪くないー」などという、ただの自慰的言説に惑わされず、少年少女たちは心置きなく勝手に「反抗」すればいいんじゃないでしょうか。

いながききよたか【Archive】2016.05.11

よろしければ、サポート頂けますと幸いです。