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新しい波や合理主義について思うこと

 先週は更新できず、また休載の報せもできずに申し訳ありませんでした。ちょっと持病が悪化して長文を書く余裕がなく……。まあ、ともかくまたいつもどおり書いていこうかなと思います。

 今回は「時代の流れ」について。
 僕は昔から新しいものより古いものに好奇心が向く方だった。最新の流行をキャッチするアンテナの感度が低いというのもあるし、性格が保守的だからというのもある。それに、新しい波に対する恐怖心も強い。ヘルマン・ヘッセの『荒野のおおかみ』は時代の転換点のその激しさのあまり神経症になった男の話で、僕はこの感覚がとてもよくわかる。主人公は「蓄音機によって音楽が殺されてしまう」なんてことを思っているのだが、これはもう「サブスクで音楽が殺される」と言っている人とほとんど同じだ。
 ただ、それでも僕は最新のものを無闇に否定しないでおこうとかなり意識していた。ところが、そういうことにももう疲れてしまったというのが本音だ。新しいものに対する好奇心や新しい波を認める努力が最近は辛くなってきた。時代の流れから外れてきているという自覚はあるが、もう、それでいいんじゃないかと思っている。その一方で、まだもう少し時代の流れを見たい気持ちもあるけれど……。やはり今のスポーツの世界は大味に感じるし、昔の方が良かったという思いが拭えない。以前なら新しいものを認められないことを誤魔化して理論武装していたが、今は「懐古主義なんです、すみません」という具合。
 例えば、僕は今でもさまざまなことに気を揉んでいるときは「勘」を大事にしている。「こっちを選ぶと不味そうだな」という勘はどちらかと言うと当たる方だったし、経験を積んできた分、その勘を手放すのは得策ではないと思っているのだ。しかし現在、プロ野球で活躍している西武ライオンズの平良海馬というピッチャーは、「一番あてにならないのが勘。データは嘘をつかない」と言って憚らない。「マジで?」と思うが、それは僕が合理的になれていないだけだろう。もう少し前なら、「勘というのも蓄積された情報を脳のどこかが覚えているわけだから、これも一種のデータだ」というような主張をしたかもしれないが、今は「データに頼った方がいいのかな……」と思うようになってきた。そういう面で、最近は平良海馬選手から目が離せない。ずっとデータ主義でやっていくのかどうかを確かめたいのだ。
 合理主義に対する嫌悪感は年々と強まっているが、これからまだ自分が変われるのかどうかはわからない。また、合理主義社会がもっと効率の悪いものへ焦点を当てる日が来るのかもしれない。もう少しだけ世の中を観察しようかなあと、そんなことを春に思った。

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