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世界から祝福されるということ

 ちょっと体調を崩しております。今年に入って何度目だよって感じ。ほとんど虚弱体質と言っても過言ではない。去年は「もしかして偏頭痛持ちになった?」というくらい雨になると頭が痛かったし。幸い、この偏頭痛は今年になって治まったけれど、風邪をひいて栄養不足になって歯茎が痩せて差し歯が抜けたり、人との予定を原因不明の倦怠感でキャンセルしたり、挙句の果て、8月末には新型コロナウイルスに感染。それからは後遺症に悩まされる日々。キリスト教は因果律というのをあまり推してないので「不徳の致すところ」みたいなことは考えない方の僕にしても、「これなんか悪いことでもして罰が当たったんじゃないのか」と思ったりした。
 しかし、こういう話を人にしたら「普通それくらい体調崩すんじゃないですか?」と返された。そうなのだ。僕は30歳くらいまで、めちゃくちゃ身体が丈夫で、体力があったのだ。会社員をやっていた頃も6日連続13時間勤務も特にキツイと思っていなく、「この会社にいるには体力的に無理」と言って去って行く同僚を見ても「そっかあ」くらいに思っていた。身体が弱いということに極めて無頓着だったのだ。
 身体が丈夫だと理解できない文学作品がある、とまで僕は言わないけれど、やはり身体が丈夫だと本質までは染み込んでこない作品はある。例えばそれは梶井基次郎だ。梶井基次郎は、肺結核を患っていた。多くの方は知っていると思うが、彼は31歳で病没し、自分の文学的な成功すら体験できなかった。
 梶井基次郎の作品を読んでいると、人間存在がそれほど強烈ではないことに気付く。とても脆く、なんというか、死と隣り合わせといった感じがする。
 話が少し飛躍するが、芸術は大きくふたつの流れに分けられると思う。それは「人間の崇高さを究極まで追求しよう」というトーマス・マン、ヘルマン・ヘッセのようなものと、「人間世界の惨さと儚さを暴露してやる」という永井豪、ジョージ秋山のようなものだ。
 そして、永井豪やジョージ秋山の身体が丈夫だったかどうかはわからないけれど、身体が丈夫だと「自分は世界から祝福されていない」という感覚は希薄になると思う。身体が大きかったり、家が裕福だったり、異性にモテるというのは、直接的に影響があると言うよりも、「自分の人生には自分の力ではどうにもできないなにかがあるかもしれない」ということを思わないで済む。これはやはり、大きい。そんな「自分の力でどうにもならないものとどう付き合えばいいのか」というのを考える一端として、身体が丈夫かどうかというのはあると思う。

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