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安易に他人やとっつき易いものに甘えないことで見えてくるもの。

安易に自分以外に甘えない。他者であれ、コミュニティであれ、宗教であれ、さらに現代ではゲームなどの趣味嗜好であれ、自分以外のそれらに過度の依存をしないことは非常に重要なことだ。

もちろん、人は一般的に日常的にこれらに接し生きている。これを一切やめることはもちろん不可能である。心を壊さないようにするための重要な安全装置としてこれらが機能していることは事実である。

それならばこれらと接することは悪いことではないように思われる。
しかし、私は安易に接してはいけない気がしている。
接すること、接しすぎることで自分の考えが停止してしまい、自分の考えの深さのもう一歩先に進めそうなタイミングまで進めず、つい考えを突き詰めず妥協しがちになってしまうからだ。
成長とはあえて自分以外には甘えない機会を作ることであり、自分を壊すことと一体なぐらい厳しいものと考える。成長という機会において、妥協は完全に敵対する。

いくつか挙げたものから、まず他者に甘えることをもう少し掘り下げて考えてみる。
他者に甘えるということ。そこには自分の気持ちに同調してほしい、同意してほしいという願望が見える。この気持ち自体は人間の自然発露的なものであり、抱くことはおかしいことではない。

しかしこれが過ぎると、相手の気持ちに干渉し、時には強制的に捻じ曲げてでも相手に服従を求めてしまうこともありうる。
自分以外の人を自分に無理に沿わせようという行為は最終的には破綻する。

何よりよくないのは、いったんそういった対象を設定してしまうと、その存在が失われそうになると精神的にひどく乱れてしまうからである。いわゆる依存である。依存の先には最終的には対象を傷つけてしまう結果となる場合も多い。

このように他者に過度に甘えるということ行為は、自分の成長機会を失わせる危険性があるとともに、他者との関係を破綻させてしまう。
人に甘える行為には慎重になるべきである。

人に甘えることをせず、かつ自分を保とうとすれば、それ以外の対象、昔からの装置であれば社会コミュニティや宗教、現代でいえばゲームなどの趣味嗜好を使ってそれをよりどころとすることが可能である。

これらは他人との付き合いと同様、程度を考慮すれば悪いことではない。
しかし、往々にして時間の経過とともにそれらに対しての依存は高まり、その効力と副作用のバランスが崩れ、薬を毒としてしまうことも多い。そうなってくるとこれはもう人に甘えるのと同様、自分を害することになる。

自分を安定させるためにの行為によって自分を害してしまっては元も子もない、本末転倒である。

結論として、自分を救うために外部の力をもって何とかしようとすることはその距離感や関係性を見誤りがちとなり、そのためなかなか難しく、そこに生きていくために外部を利用していくことの難しさがある。

安易に外部に頼らず、自分の内部を見つめる時間を十分取ること。外部に安易に触れる機会を作るものスマートフォンやSNSなどのツールと自分との距離感を取ること、時にはそれらと接触しない強制的な方法もよいかもしれない。
自分の内部を見つめ、外部との距離を一定に取り、安易に甘えないことが、それが自分を成長させ、自分を傷つけないことにつながっているはずである。


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