札幌2才児虐待事件を観て、知った実態

児童虐待防止法が施行されても尚も続く、児童相談所の問題について。

確かに報道を観る限り、今回は地域住民が何度も沢山の人たちが関係各所に通報していたのに、関係機関の対応の認識の甘さというより、悪さがこの結果を招いた。

唯一、子どもを強制的に親の同意なく一時保護措置が取れる立場の児相が断固として動かなかったのは、どんな釈明も通用はしない。
しかし通報を受けて出向いた警察官も子どもの身体に出来たアザを目視して確認出来ていた時点で、何度も通報を受けている、もう危ないから何とかしてやってくれ、という住民の通報を受けて出向いて居たのだから、その場で一時的にでも保護することは出来たはずだ。

その子は親に暴行を受けて居たのだから。

大人の認識や危機感の無さが招いた犠牲者だ。

大都市に居た私にとって、児童相談所は自分の地域にあるのが当たり前だった。
けれど、それは大いに間違っていたのを今回、私は知った。

今、私は静養で田舎の地方に居る。

よくよく、あれ?そう言えばこの地域には児童相談所はあるのか?と調べた。
過疎化の進む一方の人口減少の地域。
この町には児童相談所がない。
そういう場合は、近隣地域を統括している離れた所に児童相談所が設けられている。
だから、いざ子どもの事で困っても、すぐに足の運べる場所にはなく、車で一時間以上掛かる山道を越えて行かなければならない。
それが分かった。

札幌は大きな所だが、東京、大阪、名古屋という大都市ほどではない。

だから、もしかすると、この地域と同じように、救急車や消防車のように迅速に現場まで24時間体制で駆け付けられるような状況ではないのかもしれない、と思った。

田舎だからといって、虐待がない訳ではない。
子どもがグレて家庭内暴力で困っている親が居ない訳ではない。
孤立して育児ノイローゼになって放心している親が居ない訳ではない。
障害児が居ない訳ではない。

けれど、地方に於ける児童相談所の実態は、そういった親子を受け入れられる ”体制” が物理的に整備されていない。

過疎化する地域にも色々な親子が居るはずだ。

それを考えるきっかけになったのは、この地方でのニュースを観ていて、
ハア!?と疑う内容を見たからだ。

障害児支援サポートセンター
全国にあって、色々な子どもたちに支援の手が差しのべる活動がされている。
……と思っていたら、
県内全域で1箇所にしかなく、専門職員は常勤1名、非常勤1名しか居ない、と。
知事は障害児を持つ親の会の要請を受けて、これから職員の養成をし、数を増やせるようにする、という映像が流れた。

耳を疑った。
言うほど、そんなに想像するほどの田舎でもなく、山間僻地でもない、割りと観光地の大きな県だ。

それでも、支援サポートセンターの職員が2名しか居ないなんて、あり得ない!と思って非常に驚いた。

だったら今日に至るまで、障害児の人たちはみんなどうやって過ごして、どうやって生きて来た、生きているのだろう?
信じられない。

それこそ虐待される子どもや親が居なかった訳ではないように、障害者だって居なかった訳ではない。

こういった地方の事情を知って、
札幌の事件を毎日のニュースで観てて、
これは全国的な問題で、そういう未だ何の用意もされていない地域や土地はこの日本中にあるんだろうと思った。

中央政府が机上の論議で、いくら法整備や改正法を作っても、それを動かす体制が造られていなければ、動くも何もない。
選挙区から選ばれた議員たちは何を『地元』に貢献しているのだろう?

私は20年以上に渡って、脳神経細胞を研究しているのもあって、発達障害(いま盛んに知名度が上がってきたが)や身体障害についても関連して研究している。
その関係で児童相談所とも密接な関係だった。

虐待が起こる、人間の心理的情動や脳神経の働き方、
DVや共依存など、その渦中にある人たちにも接して来て、
内因、外因、因果関係や背景を沢山見てきた。

けれど全国に於ける、対応する人間の置かれた状況を今更初めて知った。

遅れている!
それでは間に合わない!
そうやってグズグズ議論してる間に打てる手を打たなければ!

訴えても、法の権利が邪魔をして出来ないから…と、嫌になるほど杓子定規な公務員に苛々した。
そこでの私の立場は、あくまでも研究者だったから、直接的には手も足も出せない。

やっぱり、この国には危機感が足りない。
少子化で!と困っているのに、折角育っている命を救わず亡くしてしまう。

お金やモノを作る事にばかり躍起になって、
次世代がまたその経済を作っていく存在なのに、
ポロポロと手の中から零れ落としてしまう。

この国が破綻する原因は、生命を粗末にすることだ。

殺される子ども
棄てられる子ども
いじめや人間関係に疲れた、と言って呆気なく死んでしまう子ども

いじめ自殺で、死んじゃってから教育委員会に訴えても遅い。
子どもは鬱陶しいくらい見張ってなきゃ、子ども時代を忘れた大人連中になんか、何をしてて、何があるのかなんて分かりやしない。
少年期の自殺と青年期の自殺では、様子は全く違う。

そんな様子はなかった、というような、ひっそりといつの間にかにする自殺は青年期だ。
少年期は日頃から観察していれば、食欲の無さや身なりの違い、表情を子どもなりにバレまいとしている不自然さなど、些細な変化がある。

『お子さんの様子を日頃から知るためにコミュニケーションを』
と言われても、児童心理学も知る筈のない人たちには、どうやるのか具体的な方法が分からなくて当然なのに、”教えてくれる人” がどこにも居ない親たち。

何も問題ない
そう思っていたら、考える場面もない。

それは虐待も同じ。

まさか、自分のやっていることを
それがネグレクト=育児放棄=虐待 という状況だと気付くこともない。
これは良くない事をしてる、それくらいしか自覚出来ない。

誰でも同じ。
自分の行いを教えてくれるのは、他者なのだから。

『あなたって優しい』や『あなたって鬼みたい』
そんなことを言われて初めて、改めて自分を見て、自分を知る。

あと何年待てば、子どもと親の補助を担う児童相談所が、すぐ手の届く場所に造られるのだろう。

人が人を虐げるとは、どういう行為なのかを教える機関は造られるのだろう。

よろしければサポートしてみて下さい!執筆の励みと皆様のお役に立てるよう頑張ります!