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皆それぞれ違うけど、結局皆、人間だ!

 ~ LGBTQ当事者に聞いてみた!第一回 ~

何か1つのテーマを追いかけ、皆さんにお伝えするColorful democracy の新企画「Colorful issue project」。今回は「LGBTQ」をテーマにした1つ目の記事です。

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 「『私もともと女の子だったんですよ~!驚きますよね~!』っていうノリで誰にでも話しちゃうんですよ。」

 明るくこんな話しを聞かせてくれたのは新村良さん。トランスジェンダーだ。

新村さん「しょんぼりと打ち明けられたら、相手の印象も変わってしまう。もし相手にとって自分が初めて会うLGBTQの当事者だったら、そのしょんぼりとしたイメージが相手の中に植え付けられてしまうと思うので、明るくいう事にしています!」

           ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 新村さんは1990年、二女として生まれた。大学生になるまでは女性として育った。ただ、母親の母子手帳には、幼い新村さんが「おちんちん生えてこないかな」と言ったとメモしてあるそうだ。

新村さん「その頃から、違和感ではないけれど、憧れのようなものがあったのかもしれませんね」

 幼稚園生になってから、アメリカに2年ほど移り住んだ。アメリカの幼稚園は私服だったが、日本に戻ってくると幼稚園に制服があり、女の子はスカートだった。それが無性に嫌だったと新村さんは言う。だが、幼稚園の先生の配慮で、通園時のみ制服を着用し、登園後はズボンに履き替えることができ、楽しく過ごしたそうだ。

新村さん 「ありがたいことに、親も『女の子だからこうしなくちゃいけない』みたいな事を言う人ではなかったんです。スーパー戦隊シリーズのおもちゃとかスポーツブランドの服とかも買ってもらえていました。」

 小学校に上がるとスポーツに夢中になった。クラスで仲が良いのも男の子、放課後遊ぶのも男の子とが多かったそうだ。小学校低学年の時には、自分の体をみながら男性の体を思い浮かべ、「なんか違うな。どこがどうなればああいう体になるのかな」と考えていたのは覚えているそうだ。だが、年齢が上がるにつれて性別特有の体つきに変わっていったときにも、大きな反発は感じなかったそうだ。

新村さん「頭では、自分は生物学的には女だ、という事を受け入れていました。それに、頭の中の多くを楽しい事が占めていましたね。自分の性別への違和感に向き合うのを後回しにしていたのかもしれません。」

 中学・高校は女子校に通った。地元の中学校の中には入りたかったバスケ部がなく、私立のカトリック系の学校を選んだ。もともと家がカトリックの家で、新村さん自身はそこまで信仰心が強かったわけではないが、教会の温かい雰囲気になじみがあったこともあり、その学校を選んだそうだ。制服は少し嫌だったが、部活が楽しかったので、「好きなことをやりにいきたい」という気持ちが勝っていた。

新村さん「すごい短髪で、ボーイッシュだったので、みんなが注目してくれていい気分も味合わせてもらいましたね(笑)」

 学校では特につらいことはなかった。部活のジャージや私服で校外にいる時に、「この子、男性?女性?」と探りをいれるような目で見られるのが嫌だったり、女子トイレでおばさんに「あなた、ここ女子トイレよ」と怒られて困ることはあったが、ただひたすらにバスケ部が楽しかったそうだ。

 当時、恋愛をしたいとは思わなかったが、「いいな」と思う相手は女子校の先輩や後輩だった。トランスジェンダーという言葉は知らなかったものの、「ゲイ」や「レズビアン」など同性愛者を指す言葉は知っていた。だが、自分は女性として女性が好きなわけではなく、レズビアンではないな、と漠然と感じていた。

新村さん「自分のセクシュアリティについては、よくわからない感覚の中で過ごしていましたね。」

 その後、大学生の時には男性とお付き合いもした。自分が生物学的には女性である事は分かっており、男女のカップルとして過ごすのだが、お相手の男性の行動に対して、内心「自分だったらそうはしない。こうしてあげるのにな」と相手の目線に立って考えている自分がいたそうだ。

 大学2年生の時、そんな新村さんに転機が訪れる。大学の同級生が友人たちへ一斉メールで、自分が性同一性障害で、これからホルモン治療などをして戸籍も男性に変え、女子クラスから男子クラスに移る、と知らせてきたのだ。

新村さん「そのメールを読みながら、いいなーって思ったんです。そして、その自分を一歩引いて見て、あれ、自分もいいなって思ってる、自分もこれか!と気が付いたんです。」

 母親から「あなた性同一性障害なんじゃないの?」と聞かれた事もあり、話しても拒否されることはないだろうという安心感があった。その為、母親にはすぐに話した。父と姉にはタイミングを見て母親から話してもらう事になった。

 ただ、手術やホルモン治療を受けて性別を変える事にはためらいがあった。新村さんは中学生の時から、将来は先生として自分の母校である女子校に戻りたいという夢を持っていた。その夢をかなえる為には、男性になってからではだめだと考えていたそうだ。

新村さん「学校側は、卒業生が女性として戻ってくるのを期待しているんじゃないか、男性になってしまったら戻れないのではないか、と考えていました。誰にもそんなこと言われていないんですけどね。」

 新卒で母校に戻り、カミングアウトはせずに教師になった。体育の先生だったので基本いつもジャージ。その為、服装は問題にならなかった。ただ、トイレで女性の先生に会いたくないという思いはあったので、体育館のトイレなど、他の先生が普段使わない場所をなるべく使っていた。

 教員として7年間働いたが、その6年目にカミングアウトする事を決めた。きっかけは4年間付き合った女性とお別れした事だった。最終的には結婚をしたいと考えていたそうだが、突然彼女の方から「あなたの事は好きだけど別れたい」と切り出され、話し合いの末別れることになった。

 後から彼女が新村さんの母親に、「普通」の男性と結婚したい、と相談していたことが分かった。それを聞いて新村さんは自分を振り返ったそうだ。

新村さん「結婚しようね、とかいいつつ、先生を手放せない自分がいたんです。結婚する為に治療をしたら先生を手放さないといけないかもしれない。そうなるのが怖くて、結局口だけの人間になっていたなと思ったんです。」

 「このままだときっと自分は同じことを繰り返す。」そう考えた新村さんは、カミングアウトして治療をする事を決意する。

 何か月も病院に通って性同一性障害の診断を受けた後、校長と教頭に話をした。幸い新村さんの心配は現実のものとならず、あっさりと受け入れてくれたそうだ。全校集会を開くこともなく、下の名前を変え、職員会議で同僚に伝えた。生徒には担当者一覧表の名前の変更だけを知らせた。

新村さん「みんな、『結婚したのかな、でも下の名前だぞ???』っていう感じだったみたいです(笑)」

 「気になる人は新村先生に直接聞きに行ってください」と各クラスで伝えてもらったが、結局聞きに来たのは3~4人程度で大きな反応もなかった。

 当時担当していた保健体育の授業で体のつくりの授業などをしていたので、その場ではLGBTQの話などもするようにしていたそうだ。「先生はどれだ?答えはTです!」といったやり取りを自然としていたそうだ。

新村さん「ホルモン治療を始めると、だんだんと声や顔つきが変わってくるのですが、生徒も一緒に『先生、声変わってきたね、顔つきが男っぽくなってきた!』とみんなでわいわい言いながら過ごしました。」


 「自分はとても恵まれている」と新村さんは言う。自分のセクシュアリティについて強い反発を受けたことはないそうだ。だが、悩んだ事はなんどもあった。

 例えば、女性とお付き合いしているときに、レストランなどで注文をする際に、自分が彼女の希望を聞いて頼んであげたい、という気持ちはあったが、しゃべると定員から女性だと思われ、変にみられるのが嫌で彼女に注文してもらっていた事があるそうだ。

 またある時、お付き合いをしようかな、と考えていた女性の母親から急に呼び出され、「娘の可能性を潰さないでほしい」と言われたそうだ。この人は何をいっているんだろう、と思いつつ、生まれた時から生物学的男性である人と結婚し、子供を作る人生を送るという可能性を潰さないでほしいと言われたと受け取った。その時は、自分はマイナスな存在なのかな、こういう事をずっと続けていくよりは死んだ方がましなのかな、と考えたこともあるそうだ。同時に、自分のような存在を受け入れられないその母親への怒りも沸いてきた。

 だが、しばらくたってから、彼女の母親は母親で、自分の娘がトランスジェンダーの人と結婚するとなった時に生じるハードルや周囲の反応を、親として心配していたのだ、という事を理解せず、新村さん自身も彼女の母親の事を受け入れられていなかったという事に気が付き、愕然とした。お互いそういう姿勢を取っていては決して溝は埋まらないなと思ったそうだ。

新村さん「LGBTQと一括りにいっても、1人1人がまったく違う。でも結局はみんな同じ人間なんですよね。人種なんかも同じで、日本人、アメリカ人、韓国人、中国人みんなそれぞれ違うけど、結局はみんな同じ人間だ、そういう感覚が大事だと思います。」

 多様な人が生きやすい社会を作るために、それぞれの属性を特別に切り出す必要があるかよく考えるべき、と新村さんは言う。

新村さん「例えば、レインボーマークの付いたトイレとか作られちゃうと逆に入りずらい。そうではなくて、誰でも使える個室の部屋をいくつも作るとか、そういったLGBTQに限らず誰もが使いやすい方法を考えていけばいいんじゃないですかね。」

 

 社会に根付いた差別意識を解消していく段階で、差別の対象となっている属性を切り出して理解を深めていく必要はあるかもしれない。だが、複雑多様化していく現代社会において、色とりどりの人々が現れている。それぞれみんなが生きやすい社会を作り上げる為の試みは、従来の手法だけにとどまらないかもしれない。

 カラフルな社会の実現を目指して、まだまだ長い道のりが私たちの前には広がっているだろう。


 新村良さん、ありがとうございました!

              (インタビュー・記事作成:松浦 薫)

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