一瞬の暴力か永続的な和平か

「優しくありたい」。
そう願った。
いや、正しくは「優しい世界であってほしい」。

少し前までは「優しくあれ」という呪いがかかっていた。
でも、今は私自身の欲求だ。
私の思い描く優しい世界とは、単純に誰も責められない世界ではない。
誰もが怒りや他責の根本を見つめ、多くの人間がそこに眠る悲しみや願いに気づいてくれる世界だ。
「なぜ」を理解し合い、理解した上で自分の感情を取捨選択していく人間が増えること。
ずっとそう願っている。

如何せんこんな思想や意志が強すぎるため「できるだけ中立(事実を見つめる)でいよう」という思いが強い。
そのため、主体的な感情を持ちづらい。主観に関しては死ぬほどあるし、しっかりと性格は悪い。
しかし、私だけが感情を殺す必要性も感じないので、どこかで発散はしたいところではある。

しかし困ったことに、「怒り」が持てないのだ。
怒りというのは不必要な感情ではない。「持っていいもの」だ。
だけどもはやこの感情に関してはもう抱いているのかすらも分からない。
むしろ、この感情の根源である「悲しみ」に目を向けたいと思っているため、怒りは逆に後からついてくるというところがある。
悲しみを先に感じ取り、その悲しみについてを考え、感じ切ってからその後処理できなかった部分を怒りに変えようとするという動き。

ここまで書いていて思ったことは、私は怒りを誰かに見せたいわけじゃない。
そうではなく、怒りを瞬発的に感じたいのだと思う。
この根本の悲しみに目を向けるという行為は「私は怒りを抱いてはいけない」という思いが働いてのもののような気がする。
それこそ、優しくありたいが故の。
しかし、それは優しさかと言われたらそうではない。
たしかに怒らず受容する人は優しいと言われがちだけど、本当の優しさは自分がしっかりしている人間が他人に目を向けた時に発生するものだと考えているので、今の私は自らの怒りの面倒を見きれていない。
この状態は少なくとも私の理想ではない。

とはいえ、今すぐには絶対に変えられないし、理想の姿が手に入るものだとも思っていない。
そもそも心というのは「したいか、したくないか」。
私は瞬発的な怒りを感じたいと思ってないから抱けないに過ぎない。
それならば、せっかく目を向けた根源の悲しみを何かで発散した方が私はきっと心地よさを感じると思う。
きっと、これが私にとっての怒りの在り方なだけなんだろうなという気さえしてくる。

私にとっての怒り(ストレス)の面倒を見たうえで、優しさを渡していきたい。
全世界とまでは言わなくともせめて身近な人間たちだけは、少しだけでも苦痛な時間が減り、少しだけでも幸せが増えるたらいい。

庇護下に置かれていた中学の頃から願っていたことをこの己の力で生きるべき大人という時間に、己の力で成していきたい。
そしていつか幼き頃の私に「願ってくれてありがとう」と言える日をが来ることを願って。

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