分からなくても許される世界

 分からないことが増えたと、最近感じることが多くなった。
 たとえば、人の顔色を窺うこと。人と話している時、常に顔色を窺いながら話していた。主に、ネガティブ感情に対して過敏だった。しかし今は、窺ったところで何も分からない。
 ほかには、人の行動の意味を考えなくなった。「今この人のこの動きはこういう心理状態からくるものなんだろうな」という憶測を立てなくなったということだ。

 ここまでのことでの分からないことというのは、要するに、「自分の脳内」を突き詰めず、不明瞭化したということだ。

 人の感情や、心理状態など、分かっていたかどうかすらも分からない。そもそも解が分からないことなのだ。
 故にこれは、あくまで自分の中の話だ。
 これらの憶測を考えているということは、自分の考えていることを全て洗い出す作業であると同時に、この憶測というのは、常に自分を疑っているということと同義になる。

 自分のことを明瞭にしておかないと、身を守れない。分からない自分というものが認められない。分からない事態に遭遇した時への恐怖が計り知れない。なので、身の回りを「分かる」で埋めることで、武装した。

 しかし、今は特段強い恐怖もなく、自分が何を考えているのかなどを逐一掬い上げることもなくなった。
 考えなくても、傷つかないのだ。分からなくても、何も傷つかない。むしろ、考えた方が傷つく。

 この状態は、人の感情をも不明瞭にしてしまい、平気で人を傷つける人だったり、空気の読めない人になったりすることが増えた。
 それがいけないこと、人の心がなく無礼極まりない人間だと、ここ最近悩んでいた。昔のような「できない人間」に逆戻りしたのではないか、と自責をしていた。
 しかし、気づいた。「私は賢いからこそ、『分からない』を作り上げたのでは」と。そして同時に、「できない奴」を演じることが、己の生存戦略だということも。

 分からない、できない奴でいることで、相手の中ではスタートラインを低く見積もってくれる。それに、相手がイライラしていてもそれほど自尊心は傷つかないのだ。逆に、自分ができる奴だと驕っている人間が、できない状況に遭遇した時の方がズタボロだ。これも私自身で経験している。

 要するに、白旗を上げた方が我が身は守りやすいという話だ。
 自分のことも、他人のことも「理解などできません」と白旗を振ってしまえば、自分で自分を傷つけなくなる。

 分からない状態を許したことにより、以前よりも、今この時の感情を、見つめられるようになった。
 一見リンクしていないように見えるけれど、全て繋がっている。
 分からない状態を嫌うということは、分からない未来に対しての不安を常に抱えることになる。そうなると、自分の中の時制は、常に未来になってしまう。現在の感情など、どうでもいいとぞんざいに扱ってしまうのだ。
 それを続けると、もちろんどんどんと体にはストレスという負債が溜まっていく。楽天家な人が病気になりにくいのは、そういうことだと思う。
 彼らは、今この時の感情を聞き取る能力がぬきんでていて、未来のことよりも、今を満たすための感情のコントロールが上手いからだ。

 たしかに昔よりも、自分の世界は貧相になり、「伝えたい」という思いも極限に減った。自分のことが一気に分からなくなったからだ。
 しかし、その分自分を大切にすることができるようになった。
 人の感情など分からなくてもいいと、言ってくれる自分がいる。分からない自分で居ても、大丈夫だと認めてくれる自分がいる。分からなくても、傷つけない自分がたしかにいるのだ。


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