慈愛と傷の経歴書

 優しくありたい。

 私にとって優しさとは、他人のありのままを受け容れるということだと思う。「あなたはそういう考えなんだね」だとか、「そういうところで怒りを抱くんだね」だとか。
 そこに、私自身と波長が合わない、分かり合えないなどはさほど関係はない。分かり合えないならそれでいい。私も相手に怒りを抱くかもしれないし、申し訳なさを感じることもあるかもしれない。
 それに、私だって人間だ。他人に何かを求めたい。ありのままを受け容れてほしいと思っている。自分がそう思うから、それが優しさだと思っている。
 
 しかし、世の中には優しさの定義が違う人間がもちろんいる。
 それはお金を渡すことであったり、全肯定をすることであったり、正確で明確なギブアンドテイクが成立することであったりと、私の定義とは違うことがたくさんある。
 分かり合えない人間たちとは、離別を何度もしてきた。そのたびに途方もない悲しさと己の不甲斐なさに苛まれる。
 それでも、「しょうがない」と思う。分かり合えなかった結果も、不甲斐ない行動を取った自分も、私を許さない相手の怒りも、全部がしょうがないこと。
 そういった私とは優しさの定義が違う人間たちは、自然と離れていくものだ。

 私は、優しくありたい。ずっとずっとそう願って生きている。もはや人生のテーマと言ってもいい。かつて私は、何もかもを受け容れてほしかったから。
 友人に「献身的すぎる」と言われたことがある。たしかにそうなのかもしれない。でも、それでも、私は他人のことを見たいし、理解したいし、分かり合えないことも受容したいと思うのだ。なぜならば、他人を受容できた時、それは自分も受容できているということだからだ。
 他人に優しくなれるということ。それは、自分にも優しくなれているということ。

 優しい世界などは訪れない。少なくとも、私の理想である「受容」に染まった世界は。
 でも、それでいいじゃんと思う。それが世界じゃん。そうすることでしか今は回れなくて、何か、他の形態に変化する可能性もあるんだよな、と考えると、この世って案外羽みたいに軽い感覚で存在してるものなんだなと思えてくるというものだ。
 

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