優しさを曖昧にすること

 優しい人、優しくない人、とカテゴライズするのをやめた。
 カテゴライズしてしまうと、自分の求めたアクションが返ってこなかった場合の落胆が大きくなってしまう。
 「あの人は優しいはずなのに、こういう反応をする人でもあるのか」と、自分の中での基準を満たしていないだけなのに、その人自体を否定するかのような見方に一気に変わってしまうことが増える。
 それは、相手を否定することでもある気がしたのだ。

 私は基本的には、他人が何をしようが特に何も思わない。他人が怒ろうが、泣こうが、「そこでそうなるんですね」としか思わない。友人以外の他人には基本あまり多くは求めていないのだ。
 必要以上に優しくする気もなければ、傷つけたいとも思っていない。傷つける必要性がないため、特に否定する気もない。(友人に関しては、相手が怒りを見せると普通に悲しんだり、そのやるせない気持ちを怒りに昇華する場合がある。)
 他人を、疑いもしないが、特に信用しているわけでもないということだ。

 よく、性善説という言葉を聞くが、私は善か悪かというより、人間というものの最初は、「白紙」だと思っている。

 人は大概良い人ではあると思う。幸甚なことに、私の周りは良い人たちばかりだ。不必要に他人を責めようとはしないし、人を簡単に切り捨てるような人はいない。そのため、人に対しての疑念は抱かないような人生を送れた。
 しかし、世の中にはやはり、見た目や少し関わっただけでは内心が分からない人は絶対に存在する。
 はたまた、因果の掴めないような、犯罪精神を持ち合わせる人間もいる。
 犯罪というのは、大方加害者を取り巻いていた環境が悪かったりする場合が多い中、時折、特に問題がなかった場合もあるようだ。
 これは、本人と周囲の感想に齟齬があるだけの話という可能性ももちろんあるが、実際にあった話が重要なのではなく、そういう場合がない話ではない、ということが重要である。

 この世は常に、予測不能である。全てが予定調和には進まないことの方が多いため、地震などの自然災害が避けられない。
 もし、周囲の環境が劣悪でなくても、犯罪を起こす心理になる人間がいたならば。
 そういった場合を考えると、性善説をあまり支持したいとは思わない。

 たしかに、胎児である時は「善」でしかなくて、色々な経験を経て「悪」に変化していったのかもしれない。
 ここで問いたいことは、物事は「善」か「悪」かの二択でしか測れないのだろうか、ということ。
 物事の善し悪しというのは、個人の物差しでしかない話なのに、集団心理とは非常に面倒で、大多数の人間が善い行いだと思えばそれは100%の善行だと見做す。裏を返せば、そこからはみ出たものは悪であったり、あるいは普通ではないというジャッジを食らう。
 あまりにも主観的な話を、人間界での標準だと言い張りすぎていると思えて仕方がない。

 前述した、人間は生まれながらにして「白紙」だという話は、私にとって、願いである。

 人は、善か悪か、普通か異常か、白か黒かだけの二択だけではなく、もっと感性の幅を広げることはできないのだろうか。
 ある人の言葉では、「中立など存在しない。絶対に主観がある」とあったが、それならそれでいい。この世に中立という立場を増やせと言っているわけではない。
 ただ、意見の種類は幾千、幾万通りもあり、それは善にも悪にも、あるいは中立にも属すものではないかもしれないという概念を、人々は心の中に少しでも心のどこかに存在させていてほしいということだ。

 もちろん大まかにカテゴライズすることは可能だ。しかし、あまりにも全ての主観をカテゴライズしすぎて、個人の分別がつかなくなりすぎている気がしてならないのだ。
 他者との境界というものが曖昧になりがちなのは、そういった集団心理が起因する点も大いにあり得ると思う。

 近年、世間では「普通じゃない」を主張し、受容する動きが出始めているが、そもそも「普通」とは誰が決めた基準なのだ、という話だ。
 紛れもない、人間だ。
 仮に、地球外生命体が私たちと関わったとして、私たちの普通は彼らの普通と重なるだろうか。あるかもしれないが、ないかもしれない。

 「主観」と「客観」と「事実」の区別ができている人間が、果たしてどれほどいるのだろうか。
 巷では、客観視という言葉で溢れ返っているが、客観視というのも結局は「客体」の「意見」でしかないということ。
 「事実」に対して派生した、人間の「主観」であることには変わりはない。

 優しさのカテゴライズをやめると、私が主観的に「優しくない」と感じられる時に、相手の行動という事実と、私が個人的に傷ついた事実、その行動を私以外の人間が受けた場合の感想は分からないという事実を、冷静に受け止めることができるようになった。
 要は、主観に対して感情的にならずにいられるということだ。

 これは、自分の傷ついたという感情を無視しているわけではない。落ち込むということは、しっかりするようにしている。
 それとは別の思考回路の幅を広げているだけなのだ。
 たしかに私は傷ついた。そして落ち込んでいる。しかし、別の視点を「持っている」と、不思議と余裕ができる。
 傷ついたという感情のみしか「持っていない」という状況は、極端な話目の前が断崖絶壁なのと同義だ。
 けれども、思考の幅を広げれば、あんな考えやこんな視点を持っている中で、私は落ち込むという選択をしているだけだと、冷静に感情と向き合えることになる。

 自分に余裕ができれば、感情的になって他人を否定する選択をするか、しないかが選べる。
 他人を否定し、傷つけたいわけじゃない。それをして傷ついたのは、紛れもない自分だったからだ。
 他人を否定することにより、己の不甲斐なさが全身を襲って、「嫌い」で塗り潰すだけだった。
 もうそんな思いは、御免なのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?