父親の表面

今週、ついに実家を出て、一人暮らしを始める。
その話を父親に話すと「出ていっちゃうの?寂しくなるねえ」「もし無理だったらルームシェアだと思って帰っておいで」と。
少し前から「ローンも払い終わるし、ずっと居ればいいのに」と2回ほど言われていた。


まとめる荷物をリストアップしていた。
リストアップがなぜ必要か。それは、このクソ汚い部屋の片付けよりも身の安全を守るためだと判断し、片付けは徐々にしていこうという算段の元初めは必要最低限の物を持っていくつもりだからだ。
そしてリストアップをしている最中、私は声を上げて泣いていた。
「出ていく」ということ。
ほとんど苦痛しかなかった、いや、苦痛しかなかったから脳裏には鮮明に刻み込まれている記憶達が眠るこの場所を何か追っ手から逃げるように去るということ。
そして、父親からの言葉。
この二つだ。この二つで私は、赤ん坊のように泣いた。
純粋に父親の優しさが沁みた。
なぜなら私は彼のことは退行催眠療法を受けてからもう他人として見れているし、純粋に他人として尊敬している。そしてその視点も彼が私にとってそこまで害のない人間という印象であり、子供と自分を他人として一線引いて扱っていたから容易かった。
けれども、そんな綺麗な感情に隣り合わせで存在するのは「昔にその優しさを見せてほしかった」ということ。
分かっていたのだ。昭和のオヤジなので、言わない堅物なだけで本当はとても思慮深い人間なのだと。
でも何も話さなかった。

ヒトというのは、40代頃にようやく生命を育てるのに適した精神になってくるらしい。
父親から「死んでほしくない理由は、思い出があるから」なんてガッチガチの理論であった印象の彼からは皆目想像もつかないような言葉を発したのも、ちょうど50代さしかかりぐらいだったはずで。

きっと彼らも、成長途中だった。そして社会通念の親についての固定観念上、育て方なんて分からないなどとは言えなかったのだろうと思う。
こういった知識は今の私の感情に客観性をくれた。
そして父親には心の底から「お世話になりました」と言いたいと思う。
私の精神性は彼の姿を見て育まれているから。


しかしもう、この一家の誰とも、今はまともに話せそうにはないのだ。

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