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「なにもしない」罪悪感と贅沢と

家にいる時間が長くなって、「なにもしない」でいる時間がふえた。

ここでいう「なにもしない」とは、主に娯楽にふけること。つまり漫画を読んだり、好きな動画を見たり、目的もなくネットサーフィンをしたり、といった行為。
無為に過ごす、とでも言い換えられるような、いわゆる生産性のない時間。

誰かと会う約束が減り、自分の裁量で自由に過ごせる時間が多くなった。その中でとくに生産的な活動もせず、娯楽に身を浸しているのには、どこか後ろめたさや罪悪感を覚えることがある。
よく聞かれる、「あなたが遊んでいるのと同じ時間で勉強している人もいるんだから、差が開いてしまいますよ」というような、誰ともわからない世間からの叱責。その声の主が、いつの間にか自分自身にすり替わっているのではないか。

「勉強」をした方がよい、というのは主張としては真っ当だ。さらに、心のどこかで、常になにかをアップデートし続けなければ、さもなければ後退してしまう、という一種の焦燥感に、いつも少なからず急き立てられている。

なぜか。

向上心があることは、美徳なのだろうか。

その「向上心」とは、仕事に活きることに向けられるのが、好ましいのだろうか。

たしかに、自分自身を(さらに場合によっては身近な人も)養って生活しなければいけないのだから、その糧となるスキルはきっと多い方がいいし、アップデートしていったほうがよい。

では、反対に、生産性のない行為は罪悪なのか。

堕落した生活を送ったからといって、自分自身の心に責められるのはちょっとつらいな。(真面目な世間の声(情報)にばかり触れていると、自分を過剰に責める癖がついてしまう気がする。)

最近はなにを学びたいのか、つまり、どちらの方向に歩きたいのか、ということが曖昧になりつつある。
たとえば、会社が自分に求めるように、この業界や種々のITツールについての知識を得、社会人としていわゆる「市場価値」が高まれば、それは「幸せ」なのか・・・

考えること全部「そうじゃない」気がして。

こういうときは結局、「なにもしない」がいちばんの解決策になりそう。

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