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(9)モルドヴァ、そしてソマリアへ       — 映画の中の東西、あるいは南北問題

[2013/5/10]

東からの非合法移民

 毎年春に、ニューヨーク近代美術館(MOMA)とリンカーン・センター共催で上映される「新しい監督・新しい映画(New Directors/New Films)」特集では、世界各国からの興味深い作品が並ぶ。前回のコラムで紹介したブルガリア映画『カメレオンの色』とともに特筆したいのは、中欧オーストリアからの映画『日の輝き(Der aglanz des tanges/The Shine of Day)』(テイッツァ・コヴィとライナー・フリメル共同監督)だ。
 ウイーンとハンブルグの二つの都市で活躍している舞台俳優フィリップの前に、今まで音信のなかった叔父のウォルターが突然現れる。ウォルターはサーカス芸人をしていたので、固い職業のフィリップの父とは折り合いが悪く、フィリップはその叔父の存在すらも知らなかった。最初は当惑していたフィリップが、次第にウォルターと心を通わせていく過程を、時にはユーモアを交えて丁寧に暖かく描いていく。

 フィリップのアパートの隣にはモルドヴァからの移民で、建築現場で働くヴィクターが幼い娘や息子と住んでいる。フィリップはヴィクターの留守中に子供たちの世話を時々していたが、ウォルターがその役目を代わりにするようになり、子供たちにもなつかれる。ヴィクターから、ビザがないため故郷の妻がオーストリアへ自由に行き来できないと聞き、ウォルターは得意のサーカスの秘芸を使ってモルドヴァからオーストリアにヴイクターの妻を密かに車で運ぶことにする。近所の人たちは、その様子を優しく見守っている。ヴィクターが彼らに見送られ、この計画を実行するためモルドヴァに旅立つ場面で映画は終わる。
 モルドヴァとは日本でもアメリカでもあまり聞かない地名であるが、ルーマニアとウクライナに挟まれた旧ソ連の共和国で、ソ連邦の崩壊とともに1991年に独立した。現在のルーマニア国内にもモルドヴァと呼ばれる地方がある、というぐらいの知識しか私にはない。このモルドヴァ地方の主要都市ヤシは文化都市で大学もあり、私は訪ねたことがある。数年前ニューヨークのMOMAで、モルドヴァ地方の村を舞台にしたドキュメンタリー『花の橋(Podul de flori/The Flower Bridge)』(08、トマス・チウレイ監督。同監督はコラム第2回で最後に紹介したルーマニアの巨匠、リヴィウ・チウレイの息子である)を見た。村のある農家では、妻が出稼ぎにイタリアに行っているので、夫と幼い子供が残されている。妻がモルドヴァに残り、夫が子供と一緒に海外に出稼ぎに行っているという『日の輝き』では逆の設定となっている。いずれにしても、出稼ぎの必要から家族が離れ離れに暮らさなければならない状況なのだ。  

モルドヴァが“東”の代表的表象となる

 モルドヴァが旧共産圏の経済的に遅れた地域であり、そこから経済的理由で非合法移民が西側先進国に出稼ぎに来るという設定を、最近もう一つの西欧映画の中で見た。毎年3月にリンカーン・センターで開催される「フランス映画とのランデヴー(Rendez-vous with French Cinema)」という最近のフランス映画を紹介する特集で上映された『三つの世界(Three World/Trois monds)』(カトリーヌ・コルシーネ監督)である。自動車販売会社をたたきあげで作り上げたらしい社長の娘との結婚を控えた従業員のアルは、同僚と出かけた夜に酔っ払ってパリ市内の道路で男性を轢いてしまうが、被害者をそのままにして逃げてしまう。それを近くのアパートの窓から目撃した大学院生のジュリエットは、妊娠したため、恋人の大学の教師フレデリックとどちらのアパートで暮らすかもめていた。

 アルを女手一つで育てた母親は、息子の会社の掃除婦。身分が違いすぎることなどで、この結婚に違和感を抱いている。罪の意識に苛まれ始めたアルは病院に様子を見に行き、やはり気にして病院に来ていたジュリエットと出会う。被害者はモルドヴァからの非合法移民で、費用のかかる延命措置や術後処理がとれないので、その妻ヴェラは途方にくれる。ほどなく男は死亡、病院職員との交渉でヴェラは臓器は高く売れるはずだ、故郷の国ではいくらいくらだったと凄み、付き添いのジュリエットを当惑させる。アルは何とか手助けをしたいとヴェラに金を渡すようにジュリエットに頼む。ヴェラはこれでは足りないとねじ込み、その金策に悩むアルは善意のかたまりのようなジュリエットと恋に落ちる。
 未亡人になった途端に、四面楚歌の外国でタフな生存本能を発揮するヴェラを演ずるのがアルタ・ドブロシで、アルバニア系の多い旧ユーゴのコソボに1980年生まれたと資料にはある。どこかで見たことがあると思ったら、私の第4回のコラムで紹介したベルギーのジャン・ピエールとリュック・ダルデンヌ兄弟の監督作品『ロルナの祈り』でベルギーに非合法移民として働きにきたアルバニア女性を演じていた女優だ。
 こうしてみると、モルドヴァが貧しい地域であり、非合法移民や出稼ぎ人の発祥国という意識が西欧の人たちの間で形成されてきて、映画にもそのような意味で使われ始めたのだ。非合法移民として差別され苦労するモルドヴァ人たちの間には独自の相互扶助組織があり、『三つの世界』にもヴェラの面倒を見る同郷の4人の男たちが登場する。この男たちは彼等の文化伝統を守る葬儀を異国で可能にし、独自の捜査をして犯人に復讐を企てる。この映画の題名の三つの世界とは、フランスに代表される先進国、モルドヴァに代表される後進国、そしてフランス社会の中での持たざるものたちのコミュニテイーという三つであろう。そして同じく差別されている側の後進国=ヴェラと持たざるもの=アルの二つの世界が溶け合うことはなく、先進国の善意の人=ジュリエットが被差別側に手を差し伸べる。

先進国の善意の人たち

 今回MOMAの「新しい監督・新しい映画」特集で上映されたフランスからの短編『戦いの前に何をあなたに願うことができるのかQue pui-je te souhaiter avant le combat?/What Can I Wish You Before the Fight?』(ソフィア・バブルアニ監督、16分)も、非合法移民を助ける優しい人たちの話だった。フランスの片田舎の農家に養子としてもらわれてきた少女は、14歳になっても話ができず、心配した父親が彼女を医者に連れてゆく。この家庭では母親は亡くなっていて、その少女はこの家の妹とはうちとけて遊んでいる。その夜、外国人の若い女性が逃げ込んで来る。その女性が床に座ってお祈りする姿や手を空中で動かすしぐさを見ていて少女は何か感じ始めることが、少女の顔のクローズアップによって判る。それは、好奇心と懐かしさと何かを認めるような表情なのだ。
 警察が来た時、少女は身代わりとなってその外国女性を助ける。その外国人とは、チェチェンからの非合法移民だと警察が語り、少女の養父は警察の車に連れて行かれる娘を走って追うところで映画が終わる。少女が実はチェチェンの出身で、フランスに養女に来る前の幼い頃の記憶がよみがえったのかどうかは明らかにされていない。チェチェンに限らず、イスラム圏で生まれ育ち、イスラム圏の習慣や独得の動作に懐かしさを感じたのかもしれない。この短編は、さまざまなことを観客に想像させ、刺激する。
 私の当コラムの第二回で、ルーマニアの片田舎の男が、クルド地域から家族が出稼ぎに行っているドイツへ向かう男を助ける『モルゲン』、アフリカから父のいるロンドンへ向かう途中の少年を助ける、港町ル・アーヴルの下町の人たちを描くアキ・カウリスマキ監督の『ル・アーヴルの靴みがき』の紹介をした。先進国、あるいは経済的により恵まれた地域へ、経済的に恵まれない地域から来る非合法移民の問題は最近に始まったことではないが、離散した家族がまた一緒に暮らせるように、あるいは何とか先進国での生活を続けて欲しいと現行の法律を破っても助けるのがヒューマニズムだとする人たちの心意気が、これらの映画のテーマになっている。概して経済的先進国は地理的に西側にあり、東方からより貧しい人々がやってくる。この東西問題のテーマは、西側の国のアーテイストの良心が問われる問題にもなっているようだ。

南の北に対する怨念

 今年の「新しい映画・新しい監督」特集で評判がよかったデンマーク映画『ハイジャック(A Highjacking)』(トビアス・リンドホルム監督)は2012年のベネツイアやトロント映画祭で上映され、そこで見たという日本の映画人もいた。デンマークの貨物船がインド洋上でソマリアの海賊にハイジャックされ、乗組員数人が人質となり数ヶ月に及ぶ海賊側と船会社との折衝の末に釈放されるというドラマで、実際に起こった事件に基づいている。99分の上映時間の一瞬たりとも飽きさせず、じりじりとした緊張の連続で、見ている私の身体からも湯気がでてくるような緊迫感であった。

 映画はそれまで無事に航海を続けていた船の中で、あと少しで上陸だとデンマークの妻に電話する料理人ミケルの場面で始まる。ほどなくその船が海賊に乗っ取られると、ミケルは慌てて結婚指輪を通しているネックレスを外して、台所の棚の上に隠す。銃で武装した海賊が十数人ばたばたと船室に乗り込んできて、船員は狭い部屋に閉じ込められ、トイレもままならぬ不自由な状態に押し込められる。臭いがすごいという会話が何度か交わされるが、幸いにも映画から臭いが漂ってこないので、観客は台詞と視覚で想像するほかない。
 トイレの状態は数日後に改善されるが、水や食べ物が次第に不足してくると、時々海賊が山羊や野菜を調達してくる。いつ殺されるかわからないという極度の緊張に加え、暑さと運動不足で船員は次第に憔悴し、持病のある船長はほぼ寝たきりの惨めな状態となる。一方、それとは対照的に北欧の冷たい金属の感触が目立つ近代的建物にある船会社では、船員家族への説明会をし、船員の生命が第一と確認し続ける。
 船会社は交渉役となる経験豊かそうなコンサルタントを雇うが、社長が直接海賊側と対話をする決意をして、コンサルタントや理事たちが控える部屋で交渉を始める。海賊側も英語のできるしたたかな男を交渉人に雇っていて、電話、ファックス、電子メールで交渉を続ける。海賊側は当然多額の身代金を要求し、それを船会社がどう抑えていくかが交渉のポイントとなる。行ったり来たりまた蛇行したりして交渉が進まないので、人質となっている船員たちは我慢の限界になる。しかし時には人質たちと海賊たちがビールを飲み交わし、料理や歌をともにする場面もあるが、見張り役のソマリア人と仲良くなったかと思うと彼が突然凶暴性を発揮したりして、予想もできない展開で狭い船内での緊張感は高まるばかりだ。 
 この緊張の原因の一つは、お互いに言葉が通じない者同士が狭い空間で長期間、顔をつきあわせていることだ。これをこの映画は、次第に薄汚れていく壁、四六時中汗をふいている人質たち、立って2、3歩進めばもう戸口に着いてしまう狭い部屋の中の窮屈な動きというイメージの積み重ねで表現していく。
 一方、物理的には快適なデンマークの本社でも、極度の緊張を数ヶ月も強いられている社長は神経をすり減らして妻に当り散らし、理事たちと対立する。社長も心理的には本社の狭い会議室に閉じ込められているという印象となる。
 ようやく交渉がまとまり、海賊たちが船を去ろうとしている時にミケルは棚の上に隠してあった結婚指輪のネックレスを首にかける。ところが、船を降りるため甲板を通るときに、見張り役のソマリア人がそれを見て銃を向けて取り上げる。必死に指輪を取り戻そうとするミケルを見た船長が、指輪をソマリア人からとりあげようとしてその場で撃たれる。一瞬の沈黙の後、船を降りる直前だったソマリア人たちの中で唯一英語を話す交渉役は、「これはまずいことになった」とばかり見張り役をこづき、ソマリア人は皆慌ててボートで去る。
 デンマークに戻ったミケルは妻子と再会できても、自分の行動を悔いて涙にくれているところで映画が終わる。あと5分待ってソマリア人が全員船を去ったことを見届けてからすべき行為を、自分が早まったために、船長が殺されてしまったからだ。問答無用の威嚇行為をとったソマリア人の凶暴性に、西欧の観客は恐怖感を抱いたことであろう。一瞬この場面で、劇場中が凍りついたような雰囲気となったのだ。
 私も勿論、ソマリア人が銃を発砲した場面では、その唐突な暴力の発露にショックを受けた。しかしその後私の心の中に湧き上がってきた気持ちは、西欧とアフリカの間の価値観の違いと経済格差の深い溝についての思いだった。結婚指輪が二人の人間の愛の証であり、特別な意味があるというのは、西欧社会の意味づけであって、生きるか死ぬかの貧困状態にあるアフリカ人にとっては単に金の塊にしかみえないだろう。海賊とは明らかに犯罪行為だし、人の財産や目に見えるものすべてをかっさらおうとするこの海賊の行動はあさましい。しかしこの場面で私が感じたのは、絶望的なコミュニケーションの不能の背後にあるさらに絶望的な経済格差の事実だった。
 しかし貧困にあえぐアフリカ人だけが、このようないわゆるヒューマニズムに反する行為をとるわけではない。第二次世界大戦中のナチスの兵隊は、ユダヤ人の指にある結婚指輪の意味を知りながら情け容赦もなく取り上げただろう。現在の東京やニューヨークの強盗も、被害者に対して同じような行為をとることは充分にあり得る。
 私にはソマリアの海賊たちの生活圏の文化で、西欧社会と似たような結婚指輪の意味づけがあるのかどうかはわからない。愛の証と知りながら、この海賊はつい先刻まで人質であり、時には一緒に親しい時間も過ごしたデンマーク人の結婚指輪を「金目(かねめ)のものじゃないか。よこせ」と取り上げたのかもしれない。しかし、と私は考えた。もしこのソマリア人とデンマーク人の間に言葉によるコミュニケーションが成り立っていたら、お互いに相手を人間と認めあう気持ちが生まれていたのではないだろうか、とかなり希望的観測ではあるがそう願わずにいられなかった。
 私にはデンマークの帝国主義の歴史を知らない。しかし北の国々に何世紀もわたり侵略を繰り返され、本来なら豊かに存在していた資源を奪われ、人間としての尊厳も破壊されてきた南の国々の人々の歴史が歴然とあるのだ。金は元来アフリカの鉱山で発掘されたものではないだろうか。その南の人間の怨念の歴史の凝縮されたものが、この金の結婚指輪に象徴されているような気もしたのだ。
 もっとも私はアフリカの国ソマリアについてはほぼ完全に無知である。内戦が続く、だからソマリア人は危険を冒しても海賊とならざるを得ない貧困が背後にあるのだろう、と漠然と考えていたわけだ。それも私が持つステレオタイプに過ぎないと気がついたのは、新宿書房の村山さんが送ってくれたソマリアについての本の紹介サイトを覗いてみて、一口に「ソマリア」と言ってもその中で多様性があることの片鱗に触れてからである。海賊として有名になったのはソマリアの中のプントランドという地区の人たちであるらしい。著者は海賊にもインタビューしているというが、なぜ海賊行為をするのか、やはりほかに手段のない貧困が原因なのだろうか。
 ここまで書いたら、ちょうど今(4月17日〜28日)ニューヨークで始まったトライベッカ映画祭で海賊退治に携わるプントランド海上警察隊の奮闘を描くドキュメンタリー『プロジェクト(The Project)』(ショーン・エフランとアダム・チラフスキー共同監督。この二人はテレビのジャーナリズムで活躍していて、これが長編処女作。)が上映されることを知った。残念ながら見ることができないのだが、解説によると、表向きは国連の取り決めで軍事行動が許されていないソマリアで、密かにアメリカ軍の指導を受けて海賊対策の危険な業務につく隊員の姿を描くもののようだ。機会があれば是非見たい。


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