見出し画像

年齢を重ねる とはどういうことか

先月、47歳になりました。

自分が大学生の時に見ていた親父の年齢になってみて、いろいろ感慨深く感じることがあるので備忘録として記しておきたい。

47歳。同年齢の妻と20歳の娘と11歳の娘を持つ。

そして仲の良い、10年来の付き合いの1つ年上の女性がいる。関係はご想像にお任せします…

自分の幸せなんて、他人へのウソと裏切りと、その埋め合わせのために取り繕うやさしさの上に成り立っていた。最低なんだけれども、今の自分自身の大切な構成要素だったりもします。結構ギリギリなラインで、時たま難しい事件が起きては何とか乗り切りながらここしばらく過ごしてきました。このままこの環境がずっと続いてくれればいいな、と思いながら。

そしてこの関係が崩れはじめている今この時ですら、僕はどちらの相手にも吐き気のする嘘を吐いて自分の保身を考えている。そしてどちらにもものすごく愛されていることをあらためて感じさせられてとても複雑な気持ちになっている。

男なんて女性に絶対に敵わない。敵うはずがない。女の、カンの良さと愛情の深さの前に男はひれ伏すしかない。男は女に内包されている存在なんだと思う。僕はアンチフェミだけれどもそう感じざるを得なかった。不思議だけれども母親に抱(いだ)かれているような心穏やかな感覚になった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

おっさんになる、ということ。ひとことで言うとめちゃくちゃ寂しい・虚しい。母親から見捨てられた子供の様な感覚なのかもしれない。

おっさんでも女性に受け入れてほしい気持ちはずっとあって、若いころは多少なりとも満たせた感情なのかもしれないけれど、おっさんになると周りの女性から毛嫌いされてくる。美容や見た目に最大限気を使っている僕ですら、女性からするとキモチワルイのだと思う。

他人から受け入れられることもなく、尚且つ自分が他者を積極的に受け入れようとするもそれを拒まれる。

そして、一つ上の年代の方やもちろん同年代の仲間も早い人は他界していく。いやがおうなしに死について意識させられ、人生とは何だ?などと若いころには意味を見出さなかったことに、意味を求め始めるも、その絶望的なリソース不足に虚無感を覚える。時間も容姿も体力も気力も精力も食欲も、何かを為し得るには圧倒的に足りない。そうやってあきらめの境地にたどり着く。

本当に怖い。家族や子供、愛すべき人、愛してくれる人がいても尚、自分の存在の無意味さに打ちひしがれる。

でも、そもそも自分の存在意義って自分の中にあるわけではなくて、他者の中にあるものだと思う。どれだけ周りの人のために何ができるか。結局はそういう答えに収束していく。

愛している人たち、愛してくれている人たちにこれから何ができるだろう。

しばらく反省をしながら考えたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?