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春に聞いた修行のはなし

新年度が始まってしまった。この時期は苦手だ。
新しい年度が始まって雰囲気が浮き立っている。春の陽気でみんな正気じゃない。早く正気に戻れと願い続ける1ヶ月だ。
そもそも、こんな苦手意識なのも、自分自身が正気ではなくなってるということなんだけど。

こんな雰囲気とは真逆に、最近、「修行」というワードをまったく別の場所で度々聞いた。
私は、いっとき訓練することにはまっていた。訓練することというより、「訓練すると思う」ことだ。それでいろんなことが耐えられたし乗り越えられた。それで良かったこともあるし、良くないことももちろんあった。良くないことは、ネガティブなことに対する感知能力が著しく下がって、傷つきの感覚が鈍磨するということ。結果的に自分をずいぶん傷つけたなぁ、もっと早く怒ったり不快感を示したりしても良かったなぁと後になってから思った。自分の不快ポイントをそれでずいぶん見逃すことになって、自分自身の健康やメンタルのマネジメントをするのに遅れた感がある。

今回はべつな場所できいた「修行」というのは、それぞれ、困難あるいは苦手な場所に身をおいて、それを乗り越えるべく自分を鍛えるみたいな意味だったと思う。なんとなくなりたい像やこうできたらいいなというのは伝わってきた。

しかし、どちらも聞きながら、それって自分をイライラさせたり、苦しめてるだけで、それを乗り越えたからといって、なりたいイメージにはならないのではないかと思った。
とくに今日きいた「修行」の話は、ややポイントがずれているというか、肝心なところをサボっている印象を持った。

何かの・誰かの役にたちたいという思いは多くの人が持っている。また身近な誰かを労りたい、ケアして楽になってほしい(ケアしたいというのとは別)という思いを持っている人もいる。
その思いを、その思いによる労働を、思いがけず評価されたときに出る感情(今回のそれは嬉さや喜びだった)を、その人が自分自身で受け止めていない、直視できていないような気がしたのだ。

自分自身を振り返ってみても、また周りを見渡してみても、咄嗟にでる素直な感情を認められないことというのが、かなりあるように思う。
どうしてなんだろう。なんで、私たちは、こんなに自分の感情をみないふりするんだろう。みても気づかないふり、なかったことにする、あるいは自分じゃなくて周りに気付きを委ねてしまうんだろう。なぜそんな抑圧をかけてしまうんだろう。

すべてがそうだとは言わないが、咄嗟に出る感情(ポジティブでもネガティブでも)は、それは素直な身体からのメッセージだから、それはそのまま受け取ったほうがよいのではないのか。
自分はこういうときにこう感じたと認知して、あるいは認知するために、言語化するほうが、よほど自分のため、自分の人生のためになるのではないか。
なぜなら、その営みが、自分をさらに知ることにつながるからだ。

素直な感情を認め吐露すること、それを素直に言葉にするのは恥ずかしいときもあるし、言葉にするのを邪魔する自分自身の抑圧がある。
でも、そこがポイントではないのか。
その抑圧が何か、もしそれがわからなくても自分が自分にかけてる抑圧や呪縛を外してみようと始めるのがむしろ修行なんじゃないのか。
修行というもので、結局向き合うのは自分自分なのだ。
苦手な環境、劣悪な環境、できない環境で、周囲に憎しみや恨みをつのらせるのは修行ではない。
もっと気付きが多く、もっと愉しく周囲を恨まないなかで、自分と向き合うこともできる。

今日はそんな話をした。
あ、すでに昨日のことですが。

自分を振り返ると、ここしばらく重なりすぎた徒労感で、どうせわからないだろうと、ひとに伝えるのを諦めてしまうときがあるなぁ、言語化するのをサボっていたなぁと思う。
自分自身が安心して好きな場所のことを、自分の好きなひとに言葉を尽くして話す。そういう誠実さを持ちたいなぁ、持っていたほうがずっとずっと、お互いの理解の範囲も広がるし、きっと楽しくなるだろうなぁ。聞いてくれる人がいて、自分がその人に聞いてほしいんだったら、聞いてもらえる間に、ケチらずに話そう、と久々に思った。

(三木)