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癖と自意識

気がついたら、また14日を過ぎている...!
今の私は、今の私の状況といったら、もうね、腰が痛い。ここ数日の無理と大荷物での移動がたたって、久しぶりに本格的に腰が痛い。
普段から大荷物なのは本当にやめなければならない。でも、どうしたらやめられるんでしょうか。

こういうふうにやりたくなくてもやっちゃうこととか、ついつい癖でやっちゃうことってあるよね。
そんなわけで、今回は癖と自意識の話でもしようかなと思います。

最近よく20代の頃のことを思い出す。
私は次から次へ忘れていくので、よく覚えてないことも多いんだけど、自意識過剰だったと自分のことをおそらく思っていたので、無駄な自意識を削ぎ落とそうとやっきになってたのは確かだ。
ここでいう自意識過剰ってどういうことかというと、周りの人がみんな自分をみてる、自分の悪口(噂、よいこと)を言ってるんじゃないかって思うこととは、まったく違う。
私は、◯◯なわたしが嫌だった。こう見られたくて見られようとしてる私、みんながこう言うであろうと自分がおもう私。べつにいい人と思われたいばかりでもない、ちょっと悪いこともする私も、かわいげのない私も、さみしげな私も、◯◯な私!私!私!
◯◯っていうのには、そのときの自分のちょっと特別な言葉がその都度入る。
そういうのが出てくるとうざかった。うざいのは、それが自分の欲望だからなんだけど、でもいらなかった、というより◯◯な私は事実であって事実じゃない、みたいな、自分が考えるメタな私像みたいな感じで、思考にもコミュニケーションにもたぶんジャマだった。そういうアンビバレントな状況も苦しかった。
だから、うるさい自意識をいかに削ぎ落とせるのか、みたいなことをよく考えてた。

◯◯な私を考えるのは、たぶん癖だったんだと思う。
同時に◯◯な私が出てくるのは、現実に満足してない、不服な状況があって、もっと私を見て!私にやさしくして!っていうサインなのかなと思う。要は寂しいときに出てくるサイン。
寂しいなら寂しいって認めればよかったと思うんだけど、10代から20代前半はそれがなんだか滅茶苦茶こわかったような気がする。自分にとっての現実を受け入れるのがこわかったのか、寂しいと思ってる自分を受け入れるのがこわかったのか、いまはよくわからない。
いま思えば、◯◯な私の◯◯に入る言葉は、そのときの私がほしいものが詰まってたんだろうから、それを素直にとりにいけばよかったんだけど、当時はもちろん気づいてなかった。

◯◯な私が出てこないように、私は特別でもなく、可でも不可でもなく、ただのひとっていうのを言い聞かせてたんだけど、よくないことに、これがその後しばらく癖になった。
これのよくないところは、可もなく不可もなく、の「不可もなく」を忘れがちになるところだ。
自分は特別じゃないっていうのが、どうしてなのか自分は普通以下だとかいうネガティブな評価にスルリとつながってしまう。
別にネガティブな評価はしなくていい。フラットに自分を見つめることは、ネガティブな評価をすることなんかじゃない。
これは5,6年前に当時住んでた近所を歩いてるときにふっと気づいた。あー、私、全然ちがうことしちゃってたって。

そして、いつの間にか◯◯な私とかを考えることも、◯◯な私を主張することも、またそれらを削ぎ落とすって考えることもなくなっていた。
なぜなのかっていうのはわからないんだけど、単純に忙しくなったからなのかもしれない。忙しくなったというのか、とにかく目の前にあるものにがむしゃらに取り組まないといけなくなってしまったというのが近いかもしれない。仕事だけじゃなくても。
そうすると、もう◯◯な私とか考える時間も余裕もなくなる。そんなことより考えることいっぱいあって、そして目の前のことのほうがずっとおもしろいということなんだと思う。

目の前のことに一生懸命とりくむと当然ながら疲れる。疲れたら自分に優しくしたらいい。◯◯な私っていう自意識なんか出さなくてよくなる。
たぶん、それだけのことなんだけど、それ、自分にやさしくするってことがいかに難しいかっていうのは、いまでも思う。

ありがたいことに、30代にもいい出会いはあって、そのたびにひとを理解しようとすることはきりがないなと思う。ひとを理解していくことは、本を読む、ページをめくるみたいに思っていたことがあったけど、それに終わりがない。こちらも変わっていくし、ひとも変わっていく。それがおもしろい。

まわりのひととたくさん仲良くなって、たくさん理解できて・してもらって、たくさん助けられた・助けてたとしても、結局のところ自分が自分の味方で、どんな味方でもいいから見放さない味方でいたほうがいいに決まってる。
癖っていうのは悪いものばかりでもなくて、単なるよくやっちゃうこと、よくやるやり方だから、自分が自分の味方でいられる癖を身につけられたら一番いいんだとおもう。
(三木)