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タクシー運転手

GWは友人と映画を観に行った。
「タクシー運転手—約束は海を越えて—」
http://klockworx-asia.com/taxi-driver/sp/

1980年5月18日から27日にかけて、韓国光州(クァンジュ)で起きた民主化闘争(光州事件として知られる)についての映画。
ただ、ソウルのタクシー運転手という、一個人・一市民の目を通してみた、民主化闘争という描かれ方をしている。
だから、闘争の全容がわかるわけではない。どうやって始まり、どのように終結したのか描かれない。
一人の個人タクシー運転手が、ドイツの記者を光州に乗せていくことになり、そこで目にした光州の現実と地元の人たちとの関わりが描かれる。しかもそれは2、3日ほどの出来事をメインになっている。タクシー運転手の視点からだから、イデオロギーみたいな話は出てこない、人権というような言葉も出てこない。彼の視点を借りて、民主化闘争をみることになるのだが、この視点の展開が巧みだし、イデオロギッシュに説明しないところがとてもいい。

あらすじは、サイトをみてもらえばいいのですが、話が本当に、おそらく誰もが思っている以上に、タクシー運転手の話です。物語としてもよく出来ているし、エンターテイメントとしても観れます(後半の見せ場が、マッドマックス怒りのデスロードだという感想をみかけますが、それもよくわかります)。
ただし、マッドマックスだと言われるところは置いておいても、光州民主化闘争は事実で、実際にひとが不条理に死んでいったことを思うと、観ていて苦しくなります。

終わってから、友人と話しましたが、これは民主化とはどういうものなのか、そしてソウルの一人のタクシー運転手が、民主的な社会の構成員になる過程を描いてもいます。社会構成員という言葉がダサいのとニュアンスがうまく伝わるかわからないので、違う言い方をしたいのですが、他の言葉が思いつきません。
フランスにいったときに、困っていると自分から尋ねなくても、その地域の人が気づいて教えくれるということがありました(これは韓国でもよくある)。その地域のひとが優しいという言い方もされるし、そのように受けとられることが多いですが、そのときいっしょに行った人が、ここには共同体としての意識が、社会構成員としての意識が、根付いているというような言い方をしていました。思いやりという個人の問題ではなくて、その社会を構成する一人としてできることを単にやっているというような意味で言われたのだと思います。

タクシー運転手のなかでも、どのような社会で自分は生きていたいか、生きていたい社会を構成する一員として、どうしたらいいのか、そういう葛藤も含めて描かれています。
(この先ネタバレあり)

(光州事件で亡くなったひとたちを悼む5.18記念墓地)

安心できる、ものが言いやすい、生きやすいところがどういうところなのか。
優しさを示すということは大事ですが、個人的な問題に回収されがちです。

映画のなかで、光州のひとたち、光州のタクシー運転手たちの連携や親切さが、主人公のソウルからきたタクシー運転手と、ある種対比的に、また際立って描かれるところがあります。

映画のあと、光州のひとたちについて、私は社会構成員という視角から読みとける気がすると映画を一緒にみた友達に話していたのですが、彼女は「公共意識の成熟とかのほうがなんとなくわかる」といっていました。
公共意識というのは、優先座席を例にとっていうと、「誰もがいつも優しくいられない」「いつも優しくいられなくても良い」ってことだと思われる。つまり、それが制度化するということで、個人の思いやりや優しさだけをあてにしないこと。
それが公共だ、と。
社会がそのようにできていたら(優先座席を設置してくれていたら)、個人はいつも優しくなくてもいい。
わたしだってつかれてるから、いつも譲らなくてもいい(優先座席の人が譲るというルールがある)。
社会的に誰かを助けることを前提としている、それでうまくまわっている社会、機能しているのが映画のなかでの光州のひとたちのところによく表れているように思います。

ポイントとなるのが、おにぎりを主人公のタクシー運転手がもらう場面です。
最初は光州で、2回目は光州からでてきたところで。

光州で、主人公が初めてデモの場面に向かうとき(ここでいよいよ彼が光州の民主化闘争をリアルに見つめ出す)、おにぎりを、デモにむかう女性から「腹がへっては戦はできないわよ」と言われてもらいます。記者を通訳してた大学生が「あなたは?」と女性に聞いて「わたしは充分」みたいな答えのやりとりがあります。
ここで「あなたは?」て聞けるかどうか、がポイントだと友人と話しました。
おにぎりをもらってラッキーと、主人公のソウルからきたタクシー運転手は言います。個人の損得のみがそこでいきています。
しかし、大学生の言葉「あなたは?」は個人の損得ではなく、共にいきる私たちという意識が根底にあります(この文脈ではともにたたかう私たちという意味も)。
おにぎりを渡した彼女はおにぎりを「持つ人」(それに伴う労力もはらってる)だけど、あなたは?と聞くことは、あなたの犠牲の上に(あなたの分の)おにぎりをもらってるわけじゃないよね?っていう意識から出るものです。おにぎりは皆で共有されるもの、みんなのおにぎり、でもあるのです。

おにぎりをあげるのは、優しさや思いやりもあるけど、それを越えた共に生きる、同じ社会で生きる私たちというような文脈があり、また 、そのように考える「ことができる」のは、社会構成員としての意識があるかどうかにかかわるのかもしれません。

このおにぎりの分け与えが、主人公が一度光州を後にして、光州の外の領域でうどん食べてる時もされます。光州でのおそろしかった体験とはまったく別のうららかな外の世界、外の世界は光州のことを知らずテレビで流れる嘘のニュースを真に受けているがそれに対して自分は何も言うことができない、またソウルにのこしてきた娘のために、ともに過ごした光州のひとたちを置いて出て来てしまったという罪悪感にも似た気持ち、そういうものを抱えながらうどんをかっこむのですが、その様子を見ていた店の人に、そんなにお腹減ってるならこれもどうぞと、おにぎりを出されます。
思い出されるのは、光州でもらったおにぎりのこと。
今まで、ラッキーですませていた主人公が、そこではじめて「美味しいです、ありがとう」と言うのです。

ソウルに戻ろうとしていた主人公は、食堂をあとにしたとき、「どうしたらいいんだ」と葛藤し、結局、光州に引き返します。
この2度目におにぎりをもらう場面で、主人公は社会構成員になった。
最初にもらったときの「ラッキー」と違う、最初は社会構成員じゃないから、ラッキーでおわる=個人の損得だった。
社会構成員になったから、社会の他者の痛みを共有できるようになっている。その痛みを無視することはできない。
民主化ってこういうことか、と、それが示されている場面です。

(光州の名物、トッカルビ)


光州には社会的紐帯が強まらざるを得ない状況があり、また民主化が育つ土壌があった。
映画のなかで光州のひとは優しいという台詞がありますが、それは、個人の資質じゃない。
ただ、人が言葉で表現することには限界があります。
光州のひとたちの社会構成員としての意識を、当人たちは優しさという言葉でしか表現できないということでもあります。

主人公がソウルに戻るのは、娘をひとりで残してきたからです。妻が亡くなり、酒浸りになったあとで、娘を何より大切にしようとしています。隣の友人兼大家が面倒をみてくれてもいますが、問題は色々あります(そもそも光州にいくきっかけもここにあります)

軍によって封鎖された光州から帰れなくなり、不安定になり、ソウルに帰る主人公に対して、光州のタクシーの運転手は、ひとつも責めません。
「はやく帰れ」と、これはあまり知られていない道だから、と地図を渡す。娘に会いたいよな、心配だよな、と、個別の痛みや背負ってるものを承認する。
自分たちのほうが圧倒的に理不尽な状況にあるのに、比べたりしない、光州を出ていく彼を卑怯者!と責めない、脅迫しない。
社会構成員という意識がうまくまわっている。それは決して、痛みの全体主義ではない。
タイトルのタクシー運転手は、主人公のタクシー運転手だけを意味するわけではないのです。

ドイツ人記者を光州に連れていき、封鎖されている光州から記者を逃し、帰国に助力したタクシー運転手を、記者は後年探しますが、タクシー運転手は名乗りでません。
それは社会構成員として、自分は特別じゃないから。ソウルから光州にきて運動に加わった、社会の一人にすぎないということだからかもしれません。

映画のなかで、「わたしタクシードライバー、あなたお客」という、主人公の言葉があります。自分はあなたを乗せて運転する、光州から連れ出すことの表明の言葉でもあります。これはタクシー運転手としてのプロ意識というより、社会構成員としての役割意識だったと理解できます。社会構成員として、自分ができることをする。
おにぎりを分け合うことが民主化。それに基づく社会にこのとき主人公も生きています。

(5.18記念墓地のモニュメント)

記念墓地を訪れたとき、ガイドの方が、光州が軍によって封鎖され、自治をしなければならなくなった間、光州ではいっさいの盗みや泥棒とかなかったということを強調していました。誇りだともおっしゃっていた。
このことは、きっと社会構成員としての意識が高いことの証左でしょう。だから誇りと言うのだと。
規律が守られていたという意味ではない、みんなで生きていくための、共同体としての意識があった。光州の民主化運動は、ともに生きることを目的とした闘いだった。
それは、決して目的のために死ぬことを厭わないというような、ヒロイックに、死に向かうことではなかったんだと思います。
映画のなかでは、何人も殺されていきます。光州のタクシー運転手や大学生は、誇り高く死ぬのではなく、死を目前にそれはやはり怖いという描かれ方をします。そこにあるのは、ただただ理不尽な死です。

もちろん社会構成員としての意識がネガティブに機能すると、まったく別の方向に話は転がり、おそろしい状況にもなりえます。
映画の事例は、個人が社会構成員としてうまく機能している、まさに民主化の根幹を描いてもいるのだと思います。

若い人をみていても、年配の人をみていても、生きづらそうだなぁと思うひとがいる一方で、いまは元気で特に困ったことがない人からは、個人主義に根差したような、信じられない言葉を聞くこともあります。またそうした人たちからは、かれらの善意に基づいたように装われるおそろしく差別的な言葉を聞くこともあります。(よく聞くと、論理的に筋通っていないとわかるんだけどね。)

果たしてそんな意見が蔓延するところで生きたいのか、それに加担するように生きたいのか。
私たちは、どんな世界で生きていきたいのか、どんな世界をつくりたいのか。せめて自分が生きやすくなる半径数メートルの世界をどう作っていきたいのか。

それを投げ掛ける映画「タクシー運転手」でした。
(三木)