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歴史をやるようになった思い出

この前、イタリアにいったときの写真を見返していて、そういえば、どうして歴史研究することにしたのか、ということを少し思い出した。

そもそも私は大学に入るときに研究者になる気がなかった。自分が何になりたいか、何ができるかということをよく考えていなかった。
ただ、大学にいくときは芸術とか建築の歴史みたいなことをやりたいとはなんとなく思っていた。とはいえ、別に対象は決まっていなくて歴史じゃなくてもよかった。ギリシャやヨーロッパに対する漠然とした憧れと、興福寺の建築がきれいだなぁと思っているくらいだった。
そして、その頃は詩が好きだった。言葉を編み出した詩人たちに興味があった。

本当はもっとはっきりやりたいことや、なりたいものがあったのかもしれないが、高校生の頃はそういうことに対して抑圧的だったので、あまり考えないようにしていたのかなと、今になってみれば思う。
ただ、いまの自分が何者かということについては、よく考えていた。というか確認していた。ごく当たり前と思われること、○○に住んでいる何歳の女ということを確認していた。腹がたつことは山のようにあって、自分がいまどこにいて何なのかということを確認せずにはいられなかったということだと思う。

大学に入って、2回生の後半にプレ・ゼミがあった。プレ・ゼミで、報告テーマは自由に決めることができた。
そこで、私はなぜか既存の友達以外と話そうとしなかったのだが、ゼミの人たちの発表を聞くのは好きだった。発表をきくと、疑問がどんどん出てきて、それに対して質問できる場があるのも良かった。
私が報告したのは、三味線についての何かだったと思う。やってみてすぐに限界を感じた。
そのときはこのことに興味がないのかなとしか言葉にできなかったが、今考えてみると、私は芸術の歴史みたいなことを勉強するのは好きかもしれないが、勉強する以上に何か自分で探求したりするという方向に関心が働かなかったということなんだろうなと思う。
プレ・ゼミの先生に相談して、この先生がその後のゼミの先生になった。


次年度からはゼミが始まる。卒論テーマについて決めないといけないと思っていたが、芸術についてはもうやれないなと思った。いくつか授業を受けていて(このとき影響を受けたのが教職関連でとっていた、日本文学や日本史、中国文学だった)、私が興味が持ち始めたのは、大きな意味での歴史に出てこないひとたち、大枠の階級や身分から逸脱した人たちだった。なんでそういうことに関心をもったのかは、今でも説明するのが少し難しい。「普通の社会のルール」ではないところがよかった、ある種の外れたことによる自由さを見ていたのはある。このこと自体が、それまでの私の息苦しさを表してるんだろうなと思う。
その頃の私にしては、本当にめずらしいことだったが、教職で受講していた日本史の先生に、なんとなくこういうことに興味があるんですけど、どういうことから調べたらいいですかと聞きに行った。
そこで教えてもらったのが、網野善彦だった。

網野善彦は歴史学者で、日本の中世史を主に研究していた。教えてもらって最初に読んだのは『日本の歴史を読みなおす』だった(名著!必修!)。
中高生向けに書かれたものだからか、ものすごく平易な言葉で書いてあり、すぐに読めた。そしてすぐに夢中になった。そのとき私が欲しいものがそこにつまっていた。これを読んで思い出したものがあった。
ジブリの映画「もののけ姫」だ。

もののけ姫は、私が高校生のときに公開され大ヒット、ロングランとなった。公開されてすぐに観に行き、そのあとも何度も映画館でみた。もうあんなに同じ映画を映画館でみることはない気がする。
網野さんは、もののけ姫のパンフレットに解説を書いていた。そうだよなぁ、『日本の歴史を読みなおす』には、もののけ姫に出てくるひとたちのことがたくさん書かれてるもの。映画にその影響があるのは明らかだった。

私がとくに関心をもったのは、昔の人々の「境界」に関する意識・概念だった(昔のひとたちは境界なんて言ってないけど)。
最近よく線引きということを話すが、線というラインによる境界(ボーダー)ではなくて、何かと何かが交錯するような、領域が重なるところ(場所とは限らない)、交錯するが故に異質に見えるところ、それ故に既存の枠組みとは違う理屈やルールが働いているところ。こうした考え方とは少し違うかもしれないが、似たような空間がアジールなんて言われたりする。
境界の捉えがたい感覚を、私は知りたかった。文献を読むことは、その研究の見方を知るだけではなくて、自分をその時代に潜り込ませようとするような感覚があった。その頃、タイムマシンがあればなと本気で思っていた。

とはいえ、やっていると煮詰まるときはくるもので、卒論を書くまでのどの段階だったか忘れたが、テーマを変えようかと悩んだことがある。
困って、ゼミの先生の研究室で相談した。テーマを変えるには間に合うが微妙な時期だった(けっこうギリギリ)ので、今からやれることで、と考えると、自分が関心のあった詩についてか、自分がずっと怒っていた教育についてのことだった。

ところで、この先生は研究テーマを設定するときに、「自分が怒っていることをやりなさい」と言っていた。この言葉は一生忘れないと思う。
加えて自分でテーマ設定をするのが大事と捉えてらっしゃる姿勢だったと思う(テーマが決められないということに厳しかった)。私はおそらくその影響を強く受けているので、大学院で自分でテーマを決められないような人に対して厳しい。誰かからもらったテーマでは続けられないんじゃないかと思ってしまうからだ。そして実際に続けられない例を見ているから余計にそうなってしまう。
ただ、「怒れることをやりなさい」、これはできなかった。

研究テーマを変えようかどうしようかと悩んだときに、じゃあその別の2つのどちらかでやるかみたいな話になったときに私は泣いてしまった。
感情が強すぎたのだ。
詩をよく読んでいた高校生のときは、そこが逃げ場だった。よくわからない気持ちを捨てたり濾過したりそういう作用が詩にあった。よくわからない気持ちの清浄機みたいなものを分析する能力も、また能力以上に気力がなかったし、教育の話は、もっとはっきり怒り過ぎていて、怒りがしこりのようになっていて、とても冷静に判断できなかった。
結局、じゃあ元のテーマで続けますということになって、だいぶはしょるが、なんだかんだあり今に至る。

研究をするために発火させるものや、研究を続ける動力は必ずいる。先生は、それが広い意味での怒りだったと思うが(もちろんそれだけじゃないんだろうけど)、私は、怒りが直接的な直線的なものとなるため、それを処理する手順がいるし時間がかかる。だから発火装置にするにも時間がかかるし、たぶん怒りを動力とすることにも向いていない。
ただ根底に怒りとまではいわないけど、この世界に対する何か変なのではという感覚はあった。それでも発火装置としては十分だった。

何が言いたいかというと、私は直接的に怒っていることは、感情が強すぎてできない。つまり感情に自分が支配されて、思考がままならなくなる。もし怒っていることがやりたいことであっても、そのやり方は向いていない。
少し距離をとる方法が自分には向いていた。向いていたというのは、やりやすいというだけでなく、その方法が、私が自分でも知らなかったような好奇心や関心を開かせてくれたからだ。結果的に、この方法が自分では一番楽しくできたし、ものを広く見ていくことにつながった。

(ローマ・チルコマッシモ)

イタリアには遺跡が数多くある。
ローマ時代の遺跡はあまりにも大きく、あぁこれは取り壊すことなんて労力的にも経済的にも難しいなと思った。何より圧倒的だった。大きさも規模も何もかもが。
遺跡をみていて、長い時間のなかで、これらは時代によってどのように見られていたのか、捉えられていたのか、考えた。

イギリスにもローマ遺跡はあって、19世紀にその復元がなされたりしている。その時代に復元されたのは、その時代背景がある。
ある時代には邪魔だと思われたかもしれない、ある時代には利用されたかもしれない。実際にローマ遺跡の石が、かつて石材として利用されたということもあるらしい。
いまは文化遺産として、観光資源としても残されて利用されている。
その時々でこういうものを見なすまなざしも変わってきたはずだよなぁと、そのとき、私はこういうことを、その時ごとに変わっていくまなざし、考え方、思想、理解が面白いと思って歴史研究をやっているのかもなと思った。

少し距離をとるというのは逃げかもしれないと思ったこともないではない。でも逃げではなくて、それでよかった、それが良かった。
直接的じゃない、間接的に見えることや遠回りすることでも、実は直線的な感覚と水面下でつながっているのだと思う。
そういう方法をとることで、私の直線的な感情や疑問が解決されることもあるのだ、と今になってわかるような気がする。


(三木)