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【読書メモ#001】オピニオンとエグジットとモビリティ

誤解を防ぐために一点だけ注記しておきたいのですが、筆者自身は極めて古典的な道徳観念の持ち主なので、功利的な側面からではなく、道徳的規範として「年長者は敬うべきだ」と考えています。

長く生きてきた、ということは、それだけ哀切を積み重ねてきたということです。そのような経験をしてきた人に対して「いとおしい」と感じるのは人間としてごく自然なことではないかと思いますし、そのような感情をまったく持たない人は、率直に言って戸惑いを通り越して非常に不愉快です。

P114-115より

やあ!コミュリーマンです!

強い表現を用いたタイトルの書籍なので誤解される人もいらっしゃるかもしれませんが、とかく乱暴なオッサンをディスるだけの書籍ではありません。

もしそうなら僕も好きになるはずはありませんので、上記引用を先出しさせていただだきました。

本書は日本企業の本質を捉えたビジネスパーソンの指南書であり、僕たちがいかにすればよりよい組織人として生きていけるか、更には定年後の人生までを見据えた示唆を与えてくださいます。

長たらしい前置きはさておいて、僕のメモを共有しつつ、一人でも多くの悶々とした日々を送る方に本署をお手に取っていただければなと、勝手ながらそう考えております。

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・一点だけどこかでちゃんと考えないといけないと感じているのが、現在の五十代・六十代の「オッサン」たちは、「大きなモノガタリ」の喪失以前に社会適応してしまった「最後の世代」だという点です。

・二十代の経験や考え方が人生にどのように影響を与えるのか、という問題については様々な研究がありますが、ここでは最近大きな脚光を浴びた臨床心理学者のメグ・ジェイの主張を取り上げてみましょう。メグ・ジェイは、新刊「The Defining Decade: Why Your Twenties Matter and How to Make the Most of Them Now」やTEDの講演などで、二十代は、「Defining Decade」、つまり「人生を決定付ける10年間だ」としてきしています。(中略)「人生を生きるためのOS」を作る時期に当たる、というのがメグ・ジェイの主張の骨子です。

・2018年時点で五十代・六十代となっているオッサンたちは、70年代に絶滅した「教養世代」と、90年代以降に勃興した「実学世代」のはざまに発生した「知的真空の時代」に若手時代を過ごしてしまった

”一九七〇年前後まで、教養主義はキャンパスの規範的文化であった。それは、そのまま社会人になったあとまで、常識としてゆきわたっていた。人格形成や社会改良のための読書による教養主義は、なぜ学生たちを魅了したのだろうか。”

”教養書を平均月に何冊読むかというアンケートがなされた。教養書というような言葉がそのままアンケート調査の質問に使われること自体が教養主義の存在を直接にして示しているのだが、アンケートによると、一〇日に一冊は教養書を読んでいることがわかる。ほとんど読んでいないと答えたものは一.八パーセントにすぎなかった。”

竹内洋「教養主義の没落」

・70年代の半ばから80年代にかけ、学生はどんどんバカになっていきます。(中略)「大学のレジャーランド化」

・「教養世代」に対置される「実学世代」というのは、「実学の習得に価値を置く世代」ということになります。平たくいえば経営や会計などの「手っ取り早く年収を上げるための学問」を重視する世代ということです。

・1950年代から1970年代までの「教養世代」は、「大きなモノガタリへの反抗」という側面が強かった。ところが、この「大きなモノガタリ」は、70年代の後半にいたってどんどん肥大化し、そのモノガタリに適応した人たちに対して経済的な便益、それも「ウソだろ!」と言いたくなるようなレベルの便益を与えてくれるようになります。こうなってくると、「大きなモノガタリ」に対して批判的な構えをとっていた教養主義は人をつなぎ止められなくなっていきます。それはそうでしょう、やせ我慢をしてストイックに知的修養と思索を続けたところで、「大きなモノガタリ」に身も蓋もなくうあく乗ってしまった人の方がずっと大きな「お金」を享受できるのですから。この時期に教養主義が急速に廃れていったことは当然といえば当然のことでした。

・現在の社会について確認してみれば、60年代に学生生活を送った「教養世代」はすでにほとんどが引退し、社会システムの上層部では「知的真空時代」が重役を独占し、その下を「実学世代」がかためるという構造になっています。

・(世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?について)「日本企業はアートの側面が弱いことは認めるが、しかしサイエンスの側面も弱いのではないか?」(中略)サイエンスの側面について一定のリテラシーを持つにいたったものの、同質性の罠に陥ってしまったために、そこから抜け出るためにアートに活路を見い出している欧米企業と、いまだにサイエンスすらうまく使いこなせていない日本企業(中略)「アート」にも「サイエンス」にも弱いオッサンたちが、社会や会社の上層部で実験を握るに至っている

・組織トップは宿命的に劣化する(サマります、ご容赦ください)
 ・組織のリーダーは構造的・宿命的に掲示劣化する
 ・一流の人間は、誰が何流か興味がないので考えない
 ・二流の人間は、自分が二流であり、誰が一流なのか知っている
 ・三流の人間は、二流の人間を一流と勘違いしており、自分のことすら「いまは二流だけど頑張れば一流(本当は二流)になれる」と考えて、二流をヨイショし、本当の一流のことについては自分のモノサシでは測れない
 ・一流は午來少数、二流は多数、三流は圧倒的多数
 ・人事評価は能力や成果が正規分布していることを前提にしているが、実際のところ能力も成果もパレート分布している。
 ・「数」がパワーとなる現代の市場や組織において、構造的に最初に大きな力を得るのは、いつも大量にいる三流から指示される二流
 ・書籍でも音楽でもテレビ番組でも同じで、とにかく「数の勝負」に勝とうと思えば、三流にウケなければなりません。資本主義が、これだけ莫大な労力と資源を使いながら、ここまで不毛な文化しか生み出せていない決定的な理由はここにあります。数をKPIに据えるシステムは、構造的な宿命として劣化するメカニズムを内包せざるを得ないのです。

・凡人は天才を見抜くことができない

・会社を起業し、事業を成長させることは凡人にはできませんから、それらほとんどは天才か才人によってなされるわけですが、企業が軌道に乗って成長するに連れて人的資本の増強が必要になると、会社を起業し、成長させた才人や天才たちは採用活動から遠ざかり、凡人がこれを担うようになります。やがて会社を創業した天才や才人たちが引退すれば、よほど意識的になって天才や才人を人選に担ぎ出さなければ、その組織の人材クオリティの平均は限りなく凡人の水準に近づいていくことになります。

・人を奮い立たせるような挑戦しがいのある「良いアジェンダ(課題)」を設定するリーダーのもとでは、成長にすながる「良い経験」が得られる一方で、なんの意義・意味も感じられないようなアジェンダしか設定できない三流の人材のもとでは、成長にるながる良質な経験は得られず、スキルや人格の成長は停滞することになります。つまり「凡人」のもとでは「凡人」しか育たないということです。よくトンビが鷹を生んだ、というようなことが言われますが、これは組織論の世界には当てはまりません。良質な経験を抜きにして人材の開発・成長は考えられないのです。

・組織もまたエントロピー増大の影響を受けて劣化していくのだと考えれば、私たちはそろそろ、このような時代錯誤の「昭和的な価値観」を転換する時期にきているのではないでしょうか。

急激にはあらず、しかも絶えざる、停滞せざる新陳代謝があって、初めて社会は健全な発達をする。人は適当の時期に去り行くのも、また一つの意義ある社会奉仕でなければならぬ。

石橋湛山「死もまた社会奉仕」

・今は第三次ガラガラポン革命の前夜

・(明治維新→第二次世界大戦→2025年、この各間が80年)仮に、組織や社会のリーダーの交代周期を10年と仮定すれば、80年という期間で7回の世代交代が起きます。このとき、例えば1回当たり70%の確率で一流を選出できると仮定すれば、確率は0.7%の7乗で8%程度に、1回当たり50%の確率で選出できるとすれば、7回の世代交代のすべてで一流を選出できる確率は0.5%の7乗となり、たったの0.8%しかありません。7回のうち1回でも二流あるいは三流を選出してしまえば、先述したロジックにより、一流がトップに返り咲くことはありませんから、その時点以降、一流がトップにつく確率はゼロになります。

・社会で実験を握っている権力者に圧力をかけるとき、そのやり方には大きく「オピニオン」と「エグジット」の二つがあります。オピニオンというのは、おかしいと思うことについてはおかしいと意見するということであり、エグジットというのは、権力者の影響下から脱出する、ということです。

・劣化したオッサンのもとで納得できない理不尽な仕事を押し付けられている立場にある人であれば、まずオピニオンとエグジットという武器を意識してほしい。逆にいえば、オピニオンもエグジットもしないということは、権力者の言動を指示しているということでもあります。本人にそう問い質せばもちろん否定するでしょうが、一連の不祥事を起こした企業に身を置きながら、オピニオンもエグジットもしないということは、これらの不祥事に自分もまた加担し、それらを主導した権力者を指示している、ということにほかなりません。

・オピニオンとエグジットがオッサンに圧力をかける武器として有効なのはわかる、しかし、そうすることで自分のキャリアが危険にさらされることはできれば避けたい・・・・・・。では、どうするか。(中略)汎用性の高いスキルや知識などの「人的資本」と、信用や評判といった「社会資本」を厚くすることで、自分の「モビリティ」を高めるしかありません。この「モビリティ」というのは、今後、柔軟で強かなキャリアを歩んでいくための最重要ワードだと思います。

・どのような場所でも生きていけるためにスキル・知識を獲得する、今いる場所を「いつでも出ていける」ような状態にするために学び続ける、という意識が重要

・オピニオンとエグジットを活用せず、ただダラダラと与えられた仕事に無批判に取り組むことで「劣化したオッサン」は生まれる(中略)オピニオンとエグジットの欠如が、そのような「劣化したオッサン」を甘やかし、増長させる要因になっている(中略)オピニオンやエグジットというのは、もっともわかりやすく、有効なフィードバック(中略)劣化したオッサンからすれば「オレのやっていること、言っていることに誰も反論しない、オレの支配下から誰も退出しない」ということになれば、自分がリーダーとしてそれなりの人望を持っているのだ、と勘違いしてもおかしくありません。

・なぜ、多くの人はオピニオンやエグジットという、大きな武器を活用できないのでしょうか。大きく二つの理由があると思います。一つ目が「美意識の欠如」です。(中略)明確な「許容できる、できない」という一線を持っている(中略)人であれば「それは許されないのではないか」という声をあげるでしょう。二つ目として指摘しなければならないのが、「モビリティの低さ」です。ここでいうモビリティというのはつまり、仮にエグジットというレバーを行使して所属する組織を抜け出したとしても、今と同様の生活水準を維持できる能力ということです。
 ・モビリティが高い=場所によって自分の正味現在価値が変わらない
 ・モビリティが低い=スキルや知識不足の文脈依存度が高く(以下の逆)

・日本企業に長らくいると、この「人的資本」と「社会資本」が内に閉じて形成されることになるため、まったくモビリティが高まらないという問題があります。わかりやすいのが「副業の禁止」です。人的資本にせよ社会資本にせよ、それを構築するために一番有効なのは「良い仕事体験」を得ることです。(中略)社外でも通用する人的資本と社会関係資本を形成するためには、会社の外の人と一緒にいろんな仕事をするのが一番良いのですが、日本の多くの企業では副業を禁止しているため、人的資本と社会資本は「会社の内側」にしか形成されません。

・日本企業は人に優しく、外資企業は厳しい」というのは、本当なのか(中略)「外資企業は容赦なく人を解雇するけれど、日本企業は解雇しない」(中略)解雇せずに会社の中に留め続けておいた人材が最終的にどうなるか(中略)どこかでキャリアの天井にぶつかることになります。(中略)多くの日本企業の場合では四十代の後半で、ということになります。しかし、これが本当に優しいのでしょうか。四十代の後半で、「あなたはこお会社ではこれ以上の昇進は望めませんよ」と言われても、その時点で取れるキャリアオプションはほとんどありません。

・「厳しい、厳しい」と言われる外資系企業について考えてみると(中略)キャリアの若い段階で仕事の向き・不向きがはっきりするわけですから、結果的には自分のオプションバリューが増えるということです。これはシリコンバレーの経済システムと同じで、要するに全体・長期の反虚弱性の高さは、早めにたくさん失敗するという部分・短期の虚弱性によっている、ということです。(めっちゃ良い表現!いまいち伝わらない人は、「武器になる哲学」24を読んでください!)

・外資系企業の場合、ほとんどの人はキャリアの早い段階で「あなたはここまで」と言われ、会社を移ることになります。先述したとおり、これは大きなストレスになるわけですが、それは一時的なもので、筆者の友人・知人を見る限りは、ほんの2,3年もすれば
新天地を見つけてのびのびと仕事をするようになります。恋愛と同じですね。一方で、日本の企業の場合、「あなたはここまで」と言われる年齢が40代以降なので、その時点で取れるキャリアオプションはほとんど残っていません。

・社会学者の見田宗介は、現代社会を「まなざしの地獄」と評しました。相互が相互に銃弾のような眼差しを交わしながら、お互いの社会的な立場や経済力を一瞬で値踏みし、「勝った、負けた」の精神消耗戦を毎日のように闘っている、という地獄です。

・「3ステージモデル」から「4ステージモデル」へ
 ・予防医学者の石川善樹
 ・ロンドン・ビジネス・スクールのリンダ・グラットン
 ・ライフ・シフトの共著者アンドリュー・スコット

・四十代の後半でゲームの決着がついてしまうということになれば(中略)目の前にいる上司から与えられた仕事を、その仕事の社会的意義や道徳的な
是非など問うことなく、しゃかりきになって奴隷のようにこなすしかないでしょう。(中略)極めて罪作りなシステムを運営しているというしかありあせん。

・「年長者は尊敬すべきである」命題は、正しいのでしょうか?(中略)実際に蓄積されたコンピテンシースコアのデータからも、年長者ほど能力が高いという傾向は見られません。筆者が勤務しているコーン・フェリーは世界中で年間に数十万人のコンピテンシー評価を行っていますが、全体的なスコアと年齢には統計的な相関が見られません。

・合理的な根拠がないにもかかわらず信じる行為を「信仰」と言います。つまり、年長者は尊重されなければならない、というのは、私たちの「信仰」なのです。この信仰が依拠しているのは「儒教」という宗教です。

・年長者に向かって反論する際に私たちが感じる心理的な抵抗の度合いには、民族間で差があるということがわかっています。(オランダの心理学者ヘールト・ホフステートのPDI)

・トーマス・クーンは、彼の主著である「科学の構造」のなかで、パラダイムシフトを主張するのは多くの場合「非常に年齢の若い人」か「その分野に入って日の浅い人」であるという、非常に重要な指摘をしています。

・リーダーシップ論の大家として知られるジェームズ・クーゼスとバリー・ポズナーは、すべてのリーダーシップの礎となるのは、リーダーとフォロワーのあいだに形成される「トラスト」であると言っています。トラストがなければ、どんなに頭脳明晰なビジョナリーであっても、組織を率いることはできない、と。

・まさしく、リーダーシップの多様性が求められるということですが、いずれにせよ、関われるのは「あなた個人はどのようにして組織に貢献するのですか」ということであり、単に年を食っている、経験年数が長いということだけではドヤ顔のできない時代がやってきつつある、ということでしょう。

・スタンフォード大学ビジネススクールで組織行動論の教鞭をとっているジェフリー・フェファーは、著書「「権力」を握る人の法則」において、組織内で出世して権力を得た人は、優秀だから出世したのではなく、野心的かつ政治的に動いたから出世したのだ、と指摘しています。フェファーは同著で「実績と昇進の関係いおいてはこれまでに数多くの組織的な調査が行われているが、仕事ぶりや能力は昇進や人事評価にあまり関係がないことがわかっている」と主張しています。(中略)つまり「出世した人を敬うべきだ」という命題を言い換えれば、「強欲で権力志向が強く、プライドを捨てて上司にオベッカを使う人を尊ぶべきだ」ということになります。

・そもそも年長者が社会やコミュニティにもたらしていた本質的な価値とはなんだったのか?(中略)人類は、誕生から20世紀くらいまでの長い間、「さしてライフサイクルが変わらない」という時代を過ごしてきました。そのような時代であれば、年長者の持っている過去の経験は、問題に対処する際に頼もしい知恵となったでしょう。(中略)つまり、原始時代から情報革命までの長いあいだ、組織やコミュニティにとって、年長者というのは一種の「データベース」だったということです。

・心理学者キャッテルの流動性知能と結晶性知能の枠組みを引いてみましょう。流動性知能とは、推論、思考、暗記、計算などの、いわゆる受験に用いられる知能のことです。(中略)結晶性知能とは、知識や知恵、経験値、判断力など、経験とともに蓄積される知能のことを言います。(中略)ここで重要な点なのですが(中略)流動性知能のピークは20歳前後にあり、加齢とともに大きく衰退していくことにあります。一方の結晶性知能は成人後も高まり続け、60歳前後でピークを迎えることになります。


最後に

ちょうど書籍の半分まで差し掛かった時点で8,000字近くなって参りましたので、本記事は前編ということにしたいと思います。

僕は何度も本書を読んでいるので、読むだけなら半日もかからないのですが、メモしながらとなるとやはり半分で半日ですね。

いやあ、おもしろいので、是非とも以下よりお手に取ってくださいませ。

※サムネイルは中川政七商店さんのWEBサイト社外取就任のお知らせページ写真を、VanceAIにより加工したものです。

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