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【アンガージュマン】「企てる」という選択の楽しさ

かなり遅ればせながら、私の所属している企業でも「マインドセット」という言葉が流行りつつあるようです。

少し前からイケイケとされる(ただの揶揄)数人の事業部長あたりが「君、マインドセットが重要だよ。わかる?」と使い始め、配下の管理職らが「マインドセット!マインドセット!」と喧しくシュプレヒコールを掲げてドヤリ始めています。まるで餌を待つだけのひな鳥。あ、ひな鳥に失礼でした。

しかし、これはただの身内の間での「リーダーが流行りのビジネス用語使い出した俺もマネしたいぜトレンド」というものであり、一過性のバズでしかない、ということを私は知っています。

どういうことかと言うと、本業が講師である私はここ数日、そんな彼らから

「この会社をより良い方向に導くには、もうマインドセットくらいしかないんちゃうかな?思てますねん。せやかて、どないしたら広まるんですか?」

と問われることが増えたので

「一人ひとりのマインドセットが変わりはじめ、その母数が増えることで「パラダイムシフト」が起きます。しかし、例えばハラスメントで考えてください。ハラスメントはダメだと認知されても、無くなりませんね?時間軸を長く取ることと、諦めずに訴え続けること、これしかありません。」

こうお伝えすると、ほぼ必ず肩をすぼめて帰って行かれます。この手の方々は自分が「怒られた」「注意をされた」時に限ってこのような行動様式を見せる生き物ですから、基本的には「自分が変わるつもり」はありません。

彼らのマインドセットが変わっているならば、私の返答に対する議論が生まれたり、次なるアドバイスを求められたり、そういった「当事者意識」が何らか垣間見えるはずです。彼ら自身のマインドセットは全く変わりません。

ですから私は、ご相談に対してはできるだけ真摯に返答をするものの、彼らが本質的な行動変容を起こすなどとは微塵も考えていません。期待?ROIが低すぎます。そんなもの、およしなさい。

人間という生き物は自分が求めている答えを誰かに言ってほしい生き物なのでしょう。多くは気付かない、あるいは気付かないフリをしているのか、誰に言われずとも「自由」に行動できる、というような人は少ないようです。

皆さんはお持ちですか?「アンガージュマン」を。え?なんだそれ?

アンガージュマン

「アンガージュマン」と聞くと何やら高尚な哲学用語に思えるかもしれませんが、なんということはない。英語の「エンゲージメント」のことです。この語のニュアンスとしては「主体的に関わることにコミットする」というような感じでしょうか。

私は以前、以下の記事においてドイツの社会心理学者であるエーリッヒ・フロムの「自由とは耐えがたい孤独と痛烈な責任を伴う」という言葉を解説しましたが、今回取り上げるフランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルもまた、私たち人間にとって「自由」はとても重いものとして位置づけます。サルトルはこれを指して「人間は自由の刑に処されている」と述べました。

サルトルは、この「アンガージュマン」を唱える中で、私たち自身は、自分の人生において次の二つにコミットをする必要があると考えました。

一つは「私たち自分自身の行動だ」ということになります。現代の民主主義社会で生きている私たちは、自分の行動を主体的に選択する権利が与えられています。そのような社会に生きている以上、私たちの行動や選択というのは「自由」であり、したがって「何をするか」や「何をしないのか」という意思決定については、自分で責任を取る必要があります。

さらに彼は、私たちは自分の行動に責任があるだけでなく「この世界にも責任がある」と主張します。この世界に対しての責任を考えたうえでの、私たち個人による「自由」な選択をすることが求められる。これがアンガージュマンによってコミットする二つ目の対象となる「世界」に対してです。

この二重のコミットメント———自分自身と世界———が、アンガージュマンにとっての重要な要素であり、彼はこの「自由」を社会に結び付けることの重要性を説きました。このようなアンガージュマンに溢れるビジネスパーソン、皆さんの周りにはいらっしゃいますか?

サルトルによれば、私たちは自分たちの能力や時間、つまり「人生そのもの」を使って、ある「企て」を実現しようとしているのであり、私たちに起きていることは全てその「企て」の一部として引き受けなければならないということになるわけです。この「企て」とは何か?という疑問については、本記事の最後に、見事なまでの美しい回収劇をお見せしたいと思います。

ということで、ここからは簡単にサルトルという人物が、なぜこのように考えるように至ったか、その背景についてを知ってみましょう。

「個人の自由」に挑んだ人

いまから80年前のことを、皆さんは覚えていますか?(んなわけない)

1945年、パリにある「賢者のカフェ」に行けば、パイプをふかしながらノートに何かを書きつけているその男に出会えたことでしょう。きっと「スタバで iMac 」とは段違いの優雅さがあったのではないでしょうか。その彼こそが、最も有名な実存主義の哲学者、サルトルです。

小説家、脚本家、伝記作家でもあった彼の生涯の大半はホテル暮らし。執筆はほとんどカフェで行っていたそうです。私は人の容姿にとやかく言うことを好みませんが、しかし、なかなか大衆から崇拝される人には見えなかったそうです。にもかかわらずそんなサルトルは、美しく聡明な女性シモーヌ・ド・ボーヴォワールとの長い恋人関係を続けた人でした。

第二次世界大戦時の大半の間、パリはナチスドイツに占領されており、フランス国民の生活は苦しいものでした。食料は不足していました。街で銃撃戦が起こり、レジスタンスに参加してドイツ軍と戦った者もいれば、逆にナチスに協力し自分が助かるために友人を裏切った者もいました。

そして連合国軍がドイツを破ります。世界はまさに再出発の時です。戦争が終わったことも、これまでの過去も捨て去らなければならない。これからは「どういう社会を作るか」を考える必要があります。これは私の推察でしかありませんが、きっとそれは人々にとって「救い」だったはずです。

多くの国民は、実際に戦争を体験しました。戦争中に起きた数々の惨事を目の当たりにしました。あらゆる人が「生きる意味とは何か」「神は存在するのか」「自分は常に周りの期待に応えなければいけないのか」というような、従来は哲学者が問うような深い問いについて考えるようになりました。

そのような中で、サルトルはどんなことを考えていたのでしょうか。彼は「人間は特定の目的のために作られたのではない」と考えていました。彼は人間をデザインしたと言われる神の存在を信じておらず「神が意図を持って人を作った」という考えを否定しています。

例えば、包丁であれば「切るため」にデザインされていますね。この「切る」ということが本質で、それが包丁を包丁たらしめている、という風に考えるとわかりやすいでしょう。

では、人間は何をするためにデザインされたのでしょう?「人間には本質などないし、理由があって存在するのではない」と、サルトルは訴えます。

戦時中、サルトルは『存在と無』という書籍を出版しました。この書籍の中心となるテーマが「自由」についてでした。当時のフランスはドイツの占領下にあり、多くの国民は囚人のような扱いを受けていたため、人々は「そこ」を地獄と感じていました。「自由がなかった」のです。だからこそサルトルは「人間は自由である」ということを思考し、また訴え続けました。

さらにサルトルは続けます。「誰もが自由だ」「人間であるためにあるべき特定のあり方なんてものはない」「人間は何をするか、何になるかを選べる」「どんな生き方をするかを決められるのは自分しかいない」「仮に他の人に生き方を決めてもらうにしても、それもまた自分の一つの選択だ」「他の人が期待するような人になるということも選択なのだ」と。

もちろん何かをするという選択をしても、それが必ずしも成功するとは限りません。成功しない原因は自分ではどうしようもないことでしょう。ここで非常に大切なポイントなのは「それをやりたいと思ったこと」「やろうとはしたこと」「実現できなかったこと」これらにどう応じるかは、あくまでも自分自身の選択であり、その責任も当然ながら自分のものということです。

自由というものは実に扱いが難しく、私たちの多くは自由から逃げ出してしまう。具体的なこの逃げの一つの方法として「自分は自由ではないですよというフリ」をしている。もっと現代的に言えば「忙しいフリ」でしょうか。

もしサルトルが正しいとするならば、私たちの「自由」な選択に言い訳は許されません。なぜなら、自分の毎日の行動も、それをどう感じるかも、それらは全て自分の責任だからです。

どんな感情を抱くか、ということもそう。今悲しい思いをしている人もそう。サルトルによれば、それは私たちの「自由」な選択です。悲しまなければいけないという義務はない、悲しいのなら、それはその人の選択のせい。

私はSNSに毎日のように氾濫する「今日も笑顔で」という投稿について強い違和感を感じています。笑顔が世界を救うのであれば、それはそれでとても素敵で美しいことだとは思います。しかし、愉快なら笑うが、愉快でないことも笑顔で流すだけ?それはある種ラクに逃げている可能性はないか?意見もしないという選択で良いの?という視点も要ると思うのですよね。

サルトルはまた「人の一生のうちに偶発事件などというものは存在し得ない」とさえ言います。「戦争を人生の外側からやってきた事件のように考えるのは間違っている。その戦争は、私の戦争にならなくてはいけない。なぜなら、私は反戦運動に身を投じることも、兵役拒否をして逃走することも、自殺によって戦争に抗議することもできたはずなのに、それらをせず世間体を気にして、あるいは単なる臆病さから、あるいは家族や国家を守りたいという「主体的な意思」によって、この戦争を受け入れたから」と述べます。

あらゆることが可能であるのに対して、それをせずに受け入れた以上、それは「あなたにとっての選択である」。これは「心」の存在を信じる私たちにとっては少々恐ろしいことでしょう。あまりにも辛くて直面できない人も少なくない人数いらっしゃるかもしれません。実に厳しい指摘ですが、だからこそサルトルは「人間は自由の刑に処されている」と述べたわけです。

私たちは「外側の現実と自分」を二つの別個のものとして考える癖がありますが、サルトルはそのような考え方を否定します。外側の現実は、私たちの働きかけ(あるいは働きかけの欠如)によって、そのような現実になっているわけですから、 外側の現実というのは私の一部であり、私は外側の現実の一部で、両者は切って離すことができないということです。

だからこそ、その現実を自分ごととして主体的に良いものにしようとする態度=アンガージュマンが重要ということになるわけです。

ところが、実際のところはどうでしょうか?

人生を自由に想像してみる

サルトルは、多くの人々が自分たちの自由を十分に行使せず、社会や組織から命じられたとおりに行動する「クソ真面目な精神」を発揮してしまうと、とても鋭い指摘をしました。

彼はそれらの行動を「mauvaise foi、bad faith」直訳すれば「悪意のある信頼」となるでしょうか、このように呼び、人々が自分自身の選択と行動の責任から逃れようとする心理的な傾向について異見します。私たちは自由であり、その自由を通じて自己を創造し、自分の人生に意味を与えることができますが、多くの人々はその自由を放棄し、外部の権威に安易に頼って安心感を求めることを選んでいる、と。

就職先なんて自由に選べば良いはずなのに、その自由に耐えられずに就職人気ランキングの上位の会社ばかりを受けてしまう、というのは典型的な「クソ真面目な精神」といえます。いわゆる成功というのは、社会や組織の命じるままに行動し、期待された成果を上げることを意味しますが、サルトルはそんなものは何ら重要ではないと断定します。

自由であるということは、社会や組織が望ましいと考えるものを手に入れることではなく、「選択するということを自分自身で決定することだ」と、サルトルは訴えているのです。

このサルトルの指摘は、現代アーティストのヨーゼフ・ボイスの「社会彫刻」というコンセプトにも重なります。確認すれば、私たちは世界という作品の製作に集合的に関わるアーティストであり、であるからこそこの世界をどのようにしたいか?というビジョンを持って、毎日の生活を送るべきだ、というのがボイスのメッセージでした。

サルトルもまた、「目の前の組織や社会から突きつけられる物差しによって自己欺瞞に陥ることなく、自分自身の人生を完全な自由から生まれる芸術作品のように想像することで初めて、自分としての可能性に気づくことができるのだ」と言います。

多くのビジネスパーソンは、企業文化や業界の標準に自分自身「を」合わせることで、その環境内での称賛や成功を求めがちです。だから彼らは自分自身の真の興味や能力を探求する機会を見失い、社会からの期待に合わせた「役割」を演じることに集中しているようです。

新しいアイディアや方向性に挑戦することはリスクを伴います。ですので多くは、失敗の恐れや不確実性から安全な選択肢を選びがちで、これが自己欺瞞につながります。彼らは、自分たちが本当に望むことを追求するよりも、失敗のリスクを避けることを優先します。

私の同僚にとてもユニークな人がいます。彼女は「証券」に関する部門を束ねる、世間一般的には「バリキャリ」と言われる(この言葉も既に死んでますかね)ような、肩書×自分を愛して已まない御仁です。

皆さんは、沖縄という離島をご存知・・・でしょうか・・・?沖縄という小さな島は、豊かな自然、温暖な気候、エメラルドグリーンの海と白い砂浜が広がるビーチがダイビングやシュノーケリングの絶好のスポットであり、多様な海の生物とサンゴ礁の美しさが世界中の旅行者を惹きつける小島です。

また、沖縄は独自の歴史を持ち、首里城(再建中)をはじめとする琉球王国の遺跡がその昔の栄華や文化を今に伝えます。食文化もまた魅力的で、ゴーヤチャンプルーや沖縄そばなど地元の食材を活かした料理が楽しめます。他には人々の暖かいおもてなしくらいしか、誇ることのない小さな島です。

そんな誇り少ない小さな島にいるからでしょうか?彼女は「毎月、弾丸(日帰り)でディズニーランドに行くのが私の人生のご褒美なのお」ということを、其処此処で騒ぎます。

私はいつも思います。「まじか?人生だよ?それでいいのか?あと10年ほどで定年、その後・・・」

今の肩書こそが自分自身であり、周りの社員に自己を称賛するよう振舞う。これ以上の出世は希望していないようで、したがって部門がヘタな変化を起こさないように完全管理を徹底する。このような人々を考えると、本記事冒頭で記した「マインドセットが変わる」ことなどは考えられないでしょう。

「マインドセットを変える」ということ一つ取っても実は簡単ではありません。ただ単に考え方を変えるのではなく、その変化が行動に具体的に表れることを意味するからです。だからマインドセットを変えるためにも、サルトルの言う「アンガージュマン」が欠かせないわけです。

組織や個人が真に変わるためには、ただ「マインドセットが重要だ!」と言うだけでなく、その言葉に生きた行動が伴わなければなりません。トップダウンでの指示だけでなく、一人ひとりが自身の行動や決断を通じて、実際に環境や文化を変えていくことが求められます。

このプロセスには確かに時間がかかりますし、途中で挫折することもあるでしょう。しかし、持続的にマインドセットを変革し、それを具体的な行動に落とし込むことができれば、組織文化のパラダイムシフトを起こすことは可能なはずです。

変化を促すためには、私たち一人ひとりが誠実で、一貫性のある姿勢を示し続けることが真に求められるのですが、しかしパラダイムシフトはすぐには起こり得ません。小さな変化の積み重ねを、長い時間をかけて続けます。

休みにディズニーランドへ弾丸旅行に行くのも良いでしょう。しかし、沖縄に限らず、あなたの周りには見落としている「魅力」などはないのでしょうか?肩書はあなたの全てなのでしょうか?目先の楽しみや優越は、本当にあなたの「人生」を形成するにおいての重要な位置にあるのでしょうか?

先に挙げた「社会彫刻」のコンセプトについてもう一度考えてみれば、世界をどうしたいのか、社会をどうしたいのか、組織をどうしたいのか、と辿っていくと、その最小単位は「私たち一人ひとり」であり、それこそが最も重要であるはずです。アンガージュマンの二つのコミットの一つ目は「私たち自分自身の行動だ」ということでしたものね。

そもそも「生きる」ということ自体が創造=クリエイションです。不確実性の中に身を投じて何かを作り上げるわけで、本質的に芸術と変わらないと思うのです。この世界には正解がない。であるならば「あなたはどうしたいの?」この問いが全てです。

「企て」とは、自らの自由な人生のことを指しています。私たちの全ての行動、全ての選択もまた、究極的には個々人の「小さな企て」から始まります。自らの自由を認識し、その自由に基づいた創造的な行動を選択することで、私たちは「自分の人生という総合芸術作品」を形成します。

自分自身の人生における真の「企て」を見出すためには、無意識のまま外部の命令に従うのではなく、自らの意志=アンガージュマンをもって、積極的に行動を選び取ることが不可欠です。

これこそが真の自由、自己実現への道であると、サルトルは語ります。




僕の武器になった哲学/コミュリーマン

ステップ1.現状認識:この世界を「なにかおかしい」「なにか理不尽だ」と感じ、それを変えたいと思っている人へ

キーコンセプト17「アンガージュマン」

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