見出し画像

【公正世界仮説】スジの悪い努力に人生を消費してしまわないために

今から10年近く前、私はとあるアメリカ大手のIT企業に勤めていました。

ぎりぎり20代だったかその位でしょうか。その頃は「実績を上げれば評価され昇格ができるものだ」と信じて日々の研鑽を怠らず、プロジェクト推進のためのコミュニケーションに積極貢献し、チームの中心メンバーとして稼働し良い実績を一つならず収めました。しかし、年度の終わりの査定の時期に思わぬ低評価に面喰い、嘔吐をしてしまった苦い経験があります。

当時の上司らからは「昇格の「チケット」枚数はグローバルによって決められており、今年は〇年目の彼女に配られることが決まっているんだ。」というような訳のわからない理由を伝えらた覚えがあります。あまりの衝撃で記憶が無くなってしまっているところがあるのですが、私の努力の一年は「雀の涙ほどの昇給」で終わりました。

同じような経験をした人は少なくないだろうと思います。私はわかりやすく「人目につく努力」をしましたが、人目につなかい努力が報われる可能性は更に低そうですね。縁の下の力持ちは、上司や同僚による賛辞の言葉以上の報酬を得られることはないかもしれません。

当時の私は「善良な行いは最終的に報われ、悪い行いは最終的に罰される」という実態のない信念、社会心理学でいうところの「公正世界仮説」を抱いていました。今にして思えばある種の呪いです。

公正世界仮説とは、1960年代にメルビン・ラーナーによって初めて形式化されました。この仮説は、人々が世界を基本的に公正であると信じる傾向があると主張します。つまり、人々は自分や他人が「正当な結果」を受けると信じることによって世界を理解し、予測可能に感じるということです。

当時の私は「努力は必ず報われる」という信念に捕らわれていたわけですが、それでは試しにGoogleやBingにこの言葉を投げ込んでみることにしましょう。するとどうでしょうか、野球界において知らぬ人のいないレジェンドの格言や、ビジネス誌、書籍などなど、「努力は必ず報われる」ということをポジティブに謳った記事は夥しい数が存在するようです。

これだけの数の検索結果が導き出されるということは、この言葉はやはり本当なのでしょうか?

よく努力は必ず報われるというナイーブな意見に賛同される方がが持ち出す根拠の一つに「一万時間の法則」というものがありますね。これはスウェーデンの心理学者アンダース・エリクソンの研究を基にマルコム・グラッドウェルが彼の著書「天才!成功する人々の法則」で広めた概念であり、優れたパフォーマンスを達成するためには約10,000時間の練習が必要であるという主張です。

「本当かも」「ワンチャンあるかも」という期待を胸にした皆さんが、ご自身の人生をこれ以上無駄に消費してほしくないというのが私の考えであるため、早めに結論を述べておきたいと思います。今日この法則については実証実験・文献調査に基づく新たなメタ分析により、練習がスキルの習得や成功に貢献する割合は平均してわずか12%であり、他の要因(年齢、知能、才能など)がより大きな役割を果たしていることが示されているようです。[1]

つまり、「一万時間の法則は正確ではない」ということです。

エリクソンも、この法則が彼の研究の誤解であると認めています。エリクソンによると、一万時間という数字はあくまでも(バイオリンを例に挙げている)成功した人たちの努力の時間の平均値であり、だからといって成功が約束されるわけではないと強調されています。[2]

かくいう私も、「夢は山口周師匠(自称)」と称し日々の研鑽を積んでいますが、一日平均16時間は少なくとも勉強をしているわけで、単純計算でも既に5,000時間ほど経過しています。この法則が真実であるとするならば、私は一年後には夢を実現していることになるので、実に楽しみです。などといった妄言を吐くつもりは微塵もありません。

話を進めます。よく「才能より努力だ」という論理展開をする人がいますが、生まれついての天才の代表格として名高いモーツァルトを例に挙げて確認してみましょう。次に挙げる二つの命題をご覧ください。

命題1:天才モーツァルトは努力していた。
命題2:努力すればモーツァルトのような天才になれる。

私たちは、しばしば命題2のような、「努力すれば〇〇のような天才になれる、それこそが真実である。」と考えてしまいがちです。努力そのものを否定するものではありませんが、では、私たちの周りには一万時間以上の努力をしているにも関わらず報われない人が、なぜこれほどに多いのでしょうか?私の身近にも、スポーツ選手やお笑い芸人、あるいは当時の私のように出世競争に明け暮れながらも思い描く結果を得られない人はごまんといます。

グラッドウェルのこの法則は非常にミスリーディングであり、真の命題を確認すれば次のようになります。

命題3:努力なしにはモーツァルトのような天才にはなれない。

つまり、仮に生まれついての天才であったとしても、努力なしには今日の私たちが知るところのモーツァルトのような天才になることはできない、ということなのです。

少し難しいかもしれませんね。わかりやすくするために少し極端な例を挙げてみたいと思います。野球の大谷翔平選手、将棋の藤井聡太棋士の功績を考えてみてください。彼らのようになりたいといって、命題2の「努力すれば大谷翔平のようになれる、藤井聡太のような天才になれる。」と、「自分ごと」として考えてみてください。少し悲しい気持ちになるかもしれません。

さて、「生まれついての才があっても、努力なしには天才にはなれない。」ということについてはご理解いただけたかと思いますので、話を本題である「公正世界仮説」へ戻します。

当時の私のようにこの仮説に捕らわれていると、いくら努力だけを続けても花開くことのない「スジの悪い努力」という名の呪いに満ちた人生に身を捧げてしまいかねません。私としては、なんとしても皆さんにそんな思いをしてほしくはないと願っています。

実は、この仮説にはの別の問題点があります。その点こそ、私自身が恐ろしい感じているものです。なにか?それは、不幸な目に逢っている人、例えば虐められている人や社会的弱者とされる人たちに対して、「その人にもそれなりの原因があるのだろう」「因果応報でしょう」「自業自得なんじゃないの」といった考えに至ってしまうというものです。

先述の通り、公正世界仮説を信じる人々は、良い行いが報われ、悪い行いが罰されると考える傾向があります。虐めを目撃したり、その被害者となったりする場合、人々は「被害者には何らかの原因があった」と解釈することで、世界が公正であるという信念を維持しようとします。「貧しい人には貧しい人なりの理由がある」と解釈し、やはり世界は公正だという信念を持ち続けようとします。

私自身は自分の意図とは裏腹に、虐める側・虐められる側の両方を子供の頃に経験しました。どちらも酷く惨めなものだったことを実体験として知っています。虐める側に立ったとき、他者に対する悪意や支配欲が生まれる瞬間を見てきました。一方で、虐められる側になったときは、社会的な孤立や自己価値の喪失を感じることがありました。また、今では一般的なビジネスパーソンですが、子どもの頃は裕福な暮らしではなかったので、やはりその両方の立場を知っています。

そもそも世界が公正であるならば、なぜ虐める側と虐められる側が存在するのでしょうか?なぜ貧富の格差は広がるばかりなのでしょうか?

世界は公正ではありません。努力は必ずしも報われません。このような世界であったとしても、それでも公正を目指すことこそが私たちが背負う責務であると、私はそう考えています。



僕の武器になった哲学/コミュリーマン

ステップ1.現状認識:この世界を「なにかおかしい」「なにか理不尽だ」と感じ、それを変えたいと思っている人へ

キーコンセプト①.公正世界仮説

[1]The 10,000 Hour Rule Is Not Real | Smart News| Smithsonian Magazine

[2]The 10,000-Hour Rule Was Wrong, According to the People Who Wrote the Original Study | Inc.com

もしよろしければ、サポートをお願いいたします^^いただいたサポートは作家の活動費にさせていただき、よりいっそう皆さんが「なりたい自分を見つける」「なりたい自分になる」お手伝いをさせせていただきます♡