【第623回】『われらが背きし者』(スザンナ・ホワイト/2016)

 ロシア・モスクワ、雪に覆われた凍てつく土地、スーツ姿の男たちは数字の書かれた書類にサインし、握手を交わす。後ろで見つめる妻や娘たちの姿。マフィアのボスは精一杯の感謝を込めて、ダイヤの埋め込まれた拳銃を顧客にプレゼントする。一通りの儀式が済んだ後、車で帰ろうとする一行を警備員姿の男が呼び停める。ウィンドウを開けた途端、撃ち込まれる銃弾で両親は即死。後部座席にいた娘は、あまりの恐ろしさで裸足のまま雪の中を逃げようとするが、「コートを忘れてるぞ」と呼び止められた犯罪者の銃弾を受け、絶命する。白い雪の上には少しずつ真っ赤な血が染みる。一方その頃、ロンドン大学の詩学教授ペリー(ユアン・マクレガー)は、すっかり冷え切った妻ゲイル(ナオミ・ハリス)との関係を修復しようと、モロッコ中央部の都市マラケシュにヴァカンスでやって来ていた。自然豊かなこの地でペリーは妻のご機嫌を取ろうとするが、妻は隣の席で開けた100ユーロもするシャンパンが飲みたいと強請り、夫に断られる。妻は夫の意気地のなさが心底気に入らない。結婚して7年、互いに教授と弁護士を生業とする夫婦には子供がいない。ケチな夫の姿に愛想を尽かしたゲイルは、仕事だと言ってその場をいち早く立ち去る。呆然とするペリーに対し、隣の席で酒盛りをやっていたディマ(ステラン・スカルスガルド)が親しげに話しかける。ペリーは彼の威圧感のある身体と迫力のある声に押され、ついつい席を立ち、彼の前にツカツカと歩み寄り握手を交わす。彼はいとも簡単にディマの術中に嵌っていく。

その後の展開はいわゆる「巻き込まれ型」サスペンスの定石通りと言える。主人公が興味本位で別の家族のテリトリーに入り、事件に巻き込まれる展開は直近で言えばウェイン・ワンの『女が眠る時』にも近い。だがあの作品の西島秀俊よりも、今作の主人公であるユアン・マクレガーは随分迂闊で打算がない。大学教授、専攻は詩学、愛する妻との関係が冷え切っている、この3点からも極めて真っ当で面白みのない英国人の人物造形が浮かび上がるが、ユアン・マクレガーはまさにうだつの上がらない男の余韻を、破棄のない表情で埋める。有能な弁護士の妻ほどの稼ぎもなく、国立大学で毎月決まった給料を貰う男の人生には、大きな破綻などこの先起こりそうにもない。目の前には明らかに凶悪な犯罪者にしか見えない男たちがいる。気が小さい彼は簡単に逃げ帰るに違いないが、ペリーはディマの放つ退廃的で危険な空気に引っ張られる。ユアン・マクレガーはロマン・ポランスキーの『ゴーストライター』でも、政界の巨悪の疑惑に嵌る男を演じていたが、あれ以上の気負いの無さと見事な普通っぷりである。その姿は昨日観た『ジェーン』の悪玉ジョン・ビショップとは実に対照的に映る。『ジェイソン・ボーン』シリーズのマット・デイモンや『ミッション・インポッシブル』シリーズのトム・クルーズ、『007』シリーズのダニエル・クレイグなど、スパイ映画では追われる側の主人公たちが時に超人的な力を発揮するが、今作のペリーは大英帝国に何万人といるごく普通の英国男性であるところが旨味であり、醍醐味となる。

英国産スパイ小説の傑作『寒い国から帰ったスパイ』を代表作とし、2000年代にもフェルナンド・メイレレスの『ナイロビの蜂』、トーマス・アルフレッドソンの『裏切りのサーカス』、アントン・コービンの『誰よりも狙われた男』といった数々の傑作群を生み出したジョン・ル・カレの原作は、出自となった元MI6所属の肩書きのリアリティのあるスパイ・サスペンスを売り物にしながら、組織vs個人の構図に巻き込まれる男をスリリングに紡いで来た。今作もロシアン・マフィアに命を付け狙われる男は英国スパイではなく、鉄の掟を破ろうとする男を幇助したかどで、妻もろとも組織に命を付け狙われる。新機軸は諜報部員vs国家の図式ではなく、グローバル化の只中にある世界経済の中で、マネーロンダリング(資金洗浄)にまつわるロシアン・マフィアの対立に普通の英国人が巻き込まれる点にある。その中で芽生える正義感だけは異常に強いごく普通の英国人と、悪に染まったロシアン・マフィアとの奇妙な友情。直近の『ジェイソン・ボーン』にも明らかなように、この場合の活劇をシームレスに繋ぐのは、主人公の行動と全世界的な衆人環視システムだが、今作には国家規模の衆人環視システムが一切出てこない。MI6工作員ヘクター(ダミアン・ルイス)が本部と連絡を取る際も、監督はあえて本部側の視点を用意せず、逃げ惑うペリーやディマ、ヘクター側の視点だけで物語を強引に推し進める。アクション映画の世界の趨勢にあえてそっぽを向き、英国人特有の大人の神経戦でサスペンスを醸成しようと試みた女流監督スザンヌ・ホワイトのシンプルな判断。大英帝国を起点としながらも、ロシア、モロッコ、イギリス、フランス、スイスと五ヶ国にまたがる物語は、EU離脱前の大英帝国最後のボーダレス時代を優雅に楽しんでいる。

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