【第289回】『キル・ビルvol.2』(クエンティン・タランティーノ/2004)

 クエンティン・タランティーノの映画は、常に裏切りと復讐が物語の根底にある。『レザボア・ドッグス』では宝石強盗のために集められたギャングたちが実際に犯罪を犯すが、既に行動を察知した警察に先回りされ、彼らの計画はいとも簡単に崩れ去る。いったい誰が警察の回し者なのか?疑心暗鬼にかられた男たちは、隠れ家で相打ちの銃撃戦を仕掛けることになる。『パルプ・フィクション』では冒頭、ジョン・トラボルタとサミュエル・L・ジャクソンの両名は、ボスの命令で騙し取られたスーツケースを取り返しに行く。それと並行して、一旦は八百長の依頼を受けたブルース・ウィリス扮するボクサーが呆気なくその約束を裏切り、愛する恋人と大金を持ち逃げしようとする。

『ジャッキー・ブラウン』では、サミュエル・L・ジャクソンがボーマンを釈放後にいとも簡単に殺したことを知り、彼とのビッグ・ビジネスを巧妙に維持しながら、いつどこで裏切るのかが物語の焦点となる。FBI保安官や保釈金融業者の初老の男を巻き込み、どちらかがミスを犯したら負けの心理戦で、最終的に勝ち名乗りをあげる。『キル・ビル』もそんな裏切りと復讐が物語の核となる。主人公は自分の結婚式の最中に、かつてのボス、ビル(デイヴィッド・キャラダイン)とその手下たちに襲われ、頭を撃ち抜かれる。友達も夫も、腹の中に宿っていた子供もみんな殺されてしまう。

4年間の昏睡状態から覚めた主人公は、あの日教会で自分とかけがえのない家族を襲った面々に対し、一人ずつ復讐を仕掛ける。vol.1では時系列がシャッフルされているものの、ナイフの使い手であるヴァニータ・グリーンをあっさり殺し、日本刀の名手である難敵オーレン・イシイ(ルーシー・リュー)との剣戟がクライマックスに待ち構える。最終的にはかつてのボスだったビルに復讐することが最終的な目標であるが、そこに至る前にビルの手先だった殺し屋をもう2人殺さなければならない。

今作はそこから物語がスタートする。導入部分では、vol.1以上に丁寧に4年前の教会での惨劇の場面を描く。普通ならばこれはvol.1にあって然るべきだが 笑、モノクロームで回想される物語と、主人公とビルの愛憎入り混じった歪な関係性が明らかにされ、その強硬は北野武『ソナチネ』のようにハイ・アングルで撮られたカメラによる銃声と悲鳴を捉えるが、残酷な描写は一切明らかにされない。だがvol.1と同じように、最後にビルが主人公の頭を打ち抜いた瞬間だけは今作でも繰り返される。

前作の日本パートは、異国の人から見た日本の残念な解釈が全編を覆っていたが、今回はアメリカ〜メキシコ・ロケであり、流石に安定した物語とショット構成である。最初はビルの弟を殺しにテキサスへ向かう。ビルの弟バド(マイケル・マドセン)はストリップ・クラブの用心棒をしながら、薄汚れたトレーラーで酒浸りの日々を送っている。男の住むトレーラー・ハウスも雰囲気抜群だが、扉を媒介としたアクション・シーンもvol.1とは比べものにならないくらい素晴らしい。彼女は一度は彼の動物的勘にやられ、土の中に埋められる絶体絶命の危機を迎えることになるが、ここで彼女のメンターとなった2人の男のうち、服部半蔵ともう一人、パイ・メイ(ゴードン・リュー)との思い出が回想される。

この回想シーンの殆どは、ショウ・ブラザーズ製カンフー映画への無邪気なオマージュであろう。中国名リュー・チャーフィーと言えば思い出す人も多いと思うが、『少林寺三十六房』で主人公のリュー・ユウテイを演じたあの役者である。『少林寺三十六房』を監督したラウ・カーリョンはキン・フーやチャン・チェ(ジョン・ウーの師匠)と並ぶショウ・ブラザーズの偉大な監督であり、タランティーノは深作欣二とラウ・カーリョン両名に深いリスペクトを捧げている。さながらVol.1では日本製の時代劇や任侠映画、ギャングものを主とし、vol.2ではカンフー映画の変奏曲のような雰囲気を作り出している。カンフー映画においては男に対して厳しい訓練が施されたが、今作では女性のユマ・サーマンにもまったく容赦がない。ただ単に木の壁にパンチで穴を開ける作業を何度も繰り返し、あまりの手の痛みでお箸が持てなくなる描写には笑ったが、梶原一騎もぶっ飛ぶようなスポ根劇画の世界を21世紀に堂々と再現するのである。

マイケル・マドセンは『レザボア・ドッグス』同様に、サディスティックな暴力を好む極めて冷徹な男として描かれている。しかしそんな彼よりも片目にアイ・パッチをした女、エル・ドライバー(ダリル・ハンナ)は更に上手であり、前回の扉を媒介にした描写とは、敵味方が真逆になったアクションが実に痛快である。思えばタランティーノが、太陽が燦々と輝く陽の元で、アクション・シーンを行ったことがかつてあっただろうか?ここでもタランティーノはあえて狭い室内にこだわり、トレーラー・ハウスというあまりにも狭い空間の中で、女同士の果たし合いを強引に完結させている。

ここまで来たらあとは最後の復讐を残すのみだが、ここでユマ・サーマンとデイヴィッド・キャラダインの話す科白部分が長過ぎるのには少々ガッカリした 笑。これまでタランティーノが描いてきた裏切りにも復讐にも、その裏切りと復讐に至る理由や動機が語られることはなかった。彼らの行動は実に明白であり、ブレがなかった。にも関わらずここでタランティーノはユマ・サーマンとデイヴィッド・キャラダインの愛憎入り乱れた関係性にフォーカスしてしまい、肝心のアクション・シーンの輪郭がぼやけてしまっている。これまでオーレン・イシイやその配下のGOGO夕張、そして今作におけるビルの弟バドやエル・ドライバーとのジリジリするような攻防の後、最後に出て来たラスボスの拍子抜けするような死に様は流石にないだろう 笑。無慈悲なバイオレンスを幾重にも積み重ねてきた結果がこれというのはあまりにも興醒めさせられた。またエンド・ロールの冗長な長さにも辟易した。

今作はもともと、映画1本分を想定して製作されたはずである。タランティーノが言う所の1本分だから、大体2時間半から3時間くらいの見立てのはずだが、出来上がった作品は前編・後編で4時間越えの249分の長丁場となった。vol.2はvol.1ほどすっぽ抜けたショットやシークエンスはないものの、一つ一つの細部を冗長に描き過ぎるあまり、キャラクター同士が完全にインフレを起こし、全編を貫くシンプルな主題がさっぱり見えてこないのである。当時Vol.1とVol.2どっちが良いかという論争が度々繰り返されたが、私は全体的に観てVol.2肯定派であるが、どちらもあまり感心しない。けれどそれがアメリカの観客のニーズには合致するのだから、アメリカ映画の興行の本質をあらためて思い知った。

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