【第276回】『マネーボール』(ベネット・ミラー/2011)

 ベネット・ミラーの3本のフィルモグラフィに共通するのは、実在の人物を取材して物語が作られていることである。PTAのようにフィクションから当時の世相を大胆に描写するのではなく、まずは実在の人物ありきで物語を組み立てていく。今作も低迷していた大リーグのオークランド・アスレチックスを、革新的球団運営で常勝チームへと作りかえた、実在のゼネラルマネージャーであるビリー・ビーンを元にして作られた実録ものである。

メジャー経験のあるプロ野球選手から、球団のフロントに転身するという珍しいキャリアを持つビリー・ビーン(ブラッド・ピット)。風変わりで短気なその性格は、若くしてアスレチックスのゼネラルマネージャーになってからも変わらなかった。自分のチームの試合も観なければ、腹が立つと人や物に当り散らすという、癖のあるマネジメントを強行。そんな変わり種が経営するアスレチックスは弱かった。しかも、貧乏球団のため、優秀で年俸の高い選手は雇えない。チームの低迷は永遠かと思われ、ワールド・チャンピオンの夢はほど遠かった。

今作は現代スポーツ・ビジネスの裏側を据えた恐るべきルポルタージュである。各球団には儲かっているチームとそうではないチームがあり、バックに支持基盤を持つ球団は金満経営で、次々に貧乏チームの有力選手を引き抜いていく。多かれ少なかれ世界各国のスポーツ・チームの運営とはこのように功と罪を両方孕んでいるのは疑いようもない。選手のトレードが、次の年のチームの戦力にさえも影響を及ぼしかねない。実際に今作ではジェイソン・ジアンビという2000年代を代表する一塁手のアスレチックスからヤンキースへの移籍がその一例として出て来る。高額な移籍金に目がくらみ、育った球団を出て行くのは何もジェイソン・ジアンビに限ったことではない。スポーツというのは資本主義社会の縮図であり、弱肉強食の世界である。そこは金がモノを言う世界であり、根性とか努力とはまったく関係ない次元に存在する。

ここで描かれるのは伝統vs革新との終わりなきバトルであろう。球団はGMと呼ばれるゼネラル・マネージャーの下に、数人のスカウトを引き連れている。皆大リーグとの関わりは20年以上という筋金入りのスカウトであるが、ビリー・ビーンは彼らの意見が気に入らない。彼らは選手を駒のように扱い、1人1人に辛辣な分析を挙げ連ねていく。この楽屋裏でのやり取りを選手本人が見たら落ち込むだろうなと思うくらい、歯に衣着せぬ発言を彼らは延々繰り返す。確かに彼らの意見はもっともに思える部分もある。だがビリー・ビーンは観客の心の中にある違和感を掬い上げるのである。

ここでビリーのお眼鏡にかなうのは、野球経験はないものの、データ分析が得意なピーター・ブランド(ジョナ・ヒル)という球界の異分子の存在である。ビリーは後に“マネーボール理論”と呼ばれる“低予算でいかに強いチームを作り上げるか”という独自の理論を実践。だがそれは同時に、野球界の伝統を重んじる古株のスカウトマンだけでなく、選手やアート・ハウ監督(フィリップ・シーモア・ホフマン)らの反発を生み、チーム状況が悪化。それでも強引に独自のマネジメントを進めてゆく。球団が従来持ち得ていた伝統という名の権威に対し、ビリーとピーターが提唱するのは評価の世界から一切の数値以外の評価軸を取り払った恐るべき理論である。そこには長年スカウトを務めた男の直感とか匂いとかは通用しない。あるのは情報化社会の進化に基づいて抽出されたデータへの飽くなき探求である。

さながら日本で例えるならば、野村監督の「ID野球」だろうか?それよりも過酷なデータのやり取りによってジェイソン・ジアンビの抜けた穴を埋める人材を見出したビリーとピーターは、自らの考え方を強引に推し進めていく。しかし新しいことをしようとする際には、常に古い勢力が足を引っ張ることになる。今作においてもそういう旧勢力の抵抗はスカウトの疑問や、結果が伴わないことへのプレッシャーとなり、彼らの精神的苦痛を引き起こしていく。そこにベースボールというスポーツの根源的な難しさが横たわっている。

問題はこのベースボールというスポーツに対し、監督であるベネット・ミラーがどう向き合ったかに尽きる。導入部分では前年度のワールド・シリーズに進出したものの、そこでヤンキースに逆転され敗退し、意気消沈したGMの姿が映し出される。彼は敗退の瞬間から早急に次年度の戦力をリスト・アップし、トレードの道を模索する。この間、オークランド・アスレチックスの歴史や主要選手の紹介は行われることはない。物語の主軸は既にジェイソン・ジアンビの抜けた穴をどう埋めるかに比重がかかっており、奔走するビリーはやがてデータを駆使した野球を提唱するピーターというデブを他球団から引き抜くことになる。

ここまで長々と説明してきたが、そもそも今作においては、オークランド・アスレチックスに対する説明はほとんどない。選手の説明がないまま、トレード要員を彼らがどれだけ説明しようが、大リーグに対してある一定以上の興味がない観客にとっては、何のこっちゃいである。○○は良いとか○○は駄目とか散々議論されるが、その選手たちのルックスが残念ながら映像として提示されることはない。これは単純に言って、監督の演出上のミスではないだろうか。その後シーズンが開幕し、生きた野球が提示されるものの、楽屋での内幕がフィルムなのに対し、肝心の野球の映像がテレビ・モニターの映像でしかない。これには心底ガッカリさせられた。

例えどれだけスポーツではなく、現代スポーツ・ビジネスの裏側を据えた映画であろうが、肝心なスポーツの醍醐味を感じさえてくれない映画には私自身、ほとんど魅力を感じることが出来ない。監督はブラッド・ピットやジョナ・ヒルやフィリップ・シーモア・ホフマンがしっかりと演技出来ていれば全てOKと考えていたようだが、今作の主役は、白球を追いかけ、野球というスポーツを体現したオークランド・アスレチックスのメンバーであって然るべきである。それがハッテバーグやジャスティスなど一部の選手を除いてほとんど明かされないのは、はっきりと消化不良の印象を受けた。

確かに監督の内幕を丁寧に描くことが出来れば、太い幹にまで触れなくても映画は成立するのだという自信はわからないでもない。そこを丁寧に描かなかったからこそ133分に収まったと観る向きもあるだろうが、太い幹に触れずに枝葉を描くことはその映画がはっきりと本質を突いていないことを明らかにする。映画における作劇はそんなものではない。優等生気取りのベネット・ミラーには残念ながらスポーツとビジネスとは随分と乖離していたらしい。

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