【第241回】『蜘蛛の瞳』(黒沢清/1998)

 『復讐』シリーズにおいても、黒沢はVシネマの慣習に従い2本撮り体制で撮影に臨んだ。このことが脚本における分業制の基礎を作ったことは言うまでもない。『勝手にしやがれ!!』シリーズでは黒沢清が一人で脚本を担当したのは僅かに二作のみで、他の作品は赤井国泰、塩田明彦、じんのひろあきらと共同で脚本を担当している。最後の『勝手にしやがれ!! 英雄計画』に至っては、大久保智康に脚本を任せ、黒沢は監督に専念している。

この『復讐』シリーズでは最初から高橋洋を想定して企画がスタートした。『運命の訪問者』では今やホラー映画の巨匠として有名な『リング』の脚本家である高橋洋に脚本を任せ、自分はもう1本の『消えない傷痕』の脚本に専念する。あらかじめ『復讐』シリーズのパート3パート4として想定されていた『蛇の道』と『蜘蛛の瞳』においてもそれは同様で、高橋洋に脚本を任せた『蛇の道』に対し、自分は西山洋一と共同脚本で『蜘蛛の瞳』を制作する。

しかしながらこの時、高橋洋に任せた『蛇の道』の脚本がなかなか上がって来ず、黒沢と西山は困り果てながらもパート4の脚本執筆に取り掛かるのである。この2本撮りで作られた映画が主人公・新島の娘を殺された復讐に端を発する企画でありながら、どこかいびつで、隣り合う映画同士の整合性があまり感じられないのは、この脚本の完成までの流れに負うところが大きい。ほぼ同時制作だということで、2本の作品の整合性よりも撮影の合理性が重要視されたのは言うまでもない。

高橋洋の脚本の一番の特徴は、ここまで残酷かと思わず息を呑むような実にいびつなキャラクター設定にある。哀川翔のキャラクターは大胆に変更出来ないにせよ、香川照之の人物造形も、ラスボスであるコメットさんの人物造形もこのコンビの前作である『運命の訪問者』の由良よしこ以上に、不気味に残酷で容赦がない。そもそもコメットさんの口が聞けず、片手が凶器になるという設定自体がナンセンスなのだが、高橋洋はこの『復讐』シリーズに対し、おどろおどろしい人物造形や描写をことさら強調する。前回のエントリにも書いたが当初『蛇の道』のラスト・シーンは、工場から出て来た哀川翔が最後、トラックに轢かれ即死する流れだったらしい。続編の『蜘蛛の瞳』を撮るにあたり、死なせたら駄目だろうとあえなく却下されたが、もし『蛇の道』と『蜘蛛の瞳』が逆だったら、もしかしたら黒沢は哀川翔をトラックに轢き殺させていたかもしれない。

黒沢清の脚本というのは、高橋洋の残酷で凄惨な『復讐』よりも柔らかく、登場人物たちの造形はどこかユニークで、支離滅裂で突飛な行動を取る。怖さよりも愛らしさを感じさせる。今作におけるダンカンや大杉漣、菅田俊のキャラクターは、それぞれが犯罪行為に加担する筋金入りの悪でありながらも、どこか飄々とした人物たちで憎めない。菅田俊のキャラクターは前々作『消えない傷痕』において、大杉漣、諏訪太朗に続く第三の男として突如開花したが、今作ではそれを更に引き伸ばして、影の黒幕でありながら、昼間は石を採掘する考古学者として山々に掘りに出掛けているという、あまりにもナンセンスな設定の中で、菅田俊にしか出来ない怪演を見せる。

今作において一番特徴的なのは、主人公の主体性の欠如であろう。『蛇の道』では自らの復讐計画のために宮下を巧みに操りながら、最終的には娘を殺した人物たちを皆殺しにしたが、今作では逆に抜け殻のようになった新島が、周りの人間に言われるがままに殺しに手を染めていく。前作は新島がなぜ宮下を助けるのかという部分にミステリーが宿っていたが、今作は寺島進を殺める描写をラストに持ってくるのではなく、あえて導入部分に持って来る。彼を拉致し、椅子に縛り、口を塞ぎ、コミュニケーションの手段は筆談だけという状態で彼を監禁し、最後には銃弾で殺める(死んだかどうかは問題ではない)。『勝手にしやがれ!!』シリーズ同様に、ここでもダンボールによるワンカットの暴力性が露わになる。ここで鈍器のような重い凶器を使えば、物理的にカットを割らざるを得ないが、役者の生理に対し、決定的なワンカットを映すために、黒沢はあえて軽いダンボールを凶器として用いるのである。

思えばこの『復讐』シリーズというのは、復讐をすることそれ自体が物語のゴールであった。しかしながら今作ではあっさりとそのゴールを消化し、キアロスタミの映画のような目的地が何であったのか緩やかに判別できない世界へと我々を誘う。公園のベンチに座る哀川翔に対し、昔の同級生だというダンカンが親しげに近づいてくるが、哀川はまったく彼のことが思い出せない。おそらくまったくの出鱈目か何か意図的な謀略なのだろうが、ただの好奇心だけで新島は岩松の口車に乗るのである。会社を簡単に辞め、貿易会社に転職したものの、デスクワークは怪しい書類に判子を押すだけで1日が終わる。同僚である阿部サダヲはローラー・スケートを履いて事務所の殺風景な空間を右へ左へ行ったり来たりしている。これは同じく黒沢清の脚本だった『消えない傷痕』の吉岡組の構成員たちよりもタチが悪い。

前作『蛇の道』で偶然発見した、奥行きのある工場内部での縦の動きとは打って変わって、今作ではまたしても横移動が頻繁に出て来る。その一番顕著な例は、カメラが歩道を歩く哀川翔と平行に歩きながら、車道を走る大杉漣の車からの大振りなアクションをコミカルに据えた場面である。哀川翔はその度に歩道を反転し、右へ左へと歩いていくのだが、車もその動きに呼応し、前進・後退を繰り返す。そういう人物の動きの面白さ、並走する人物と自動車の相反する動きの面白さを、黒沢は遊戯性豊かに演出するのである。

遊戯性という面で言えば、後半に出て来る哀川翔と菅田俊の山での追いかけっこの場面もそうであろう。まるでキアロスタミの俯瞰ショットのように、かなりの高所にフィックスされたカメラが哀川翔と菅田俊のあまりにもバカバカしい追いかけっこを長回しで据える。16mmから35mmに転写されたフィルムは粒子の粗い映像となり、滑稽な人間の動きを更に面白おかしくコミカルに伝える。これは『消えない傷痕』で旭川温泉までの道のりを、シャブ中で運転する菅田俊とそれを怪訝そうな表情で見つめる哀川翔の対照的な構図を超えた名場面である。吉岡組長は日沼となり、妻を殺された安城は、娘を殺された新島へと姿を変えているものの、哀川翔と菅田俊の友情の深い化学反応は、またしても抽象化されたイメージへと観客を引っ張り込むのである。

考えてみれば今作では、従来の黒沢作品に見られたキアロスタミやアンゲロプロスの方法論を実践しながらも、そのショットの端々に様々な映画史からの引用が垣間見える。あの海辺でのダンカンの「俺を殺しに来たんだろ?」の叫びからのバック・ドロップなんて思いっきりジョン・カーペンターの『ゼイリブ』だし、クライマックスで森の中を逃げる最後の女性を追いかける場面なんて実に無邪気なベルトルッチの『暗殺の森』へのオマージュではないか。これら様々な映画の引用を自らの作品作りに活かしながら、プログラム・ピクチュアの定型を猛然と剥いでいく黒沢の才気が爆発している。

主人公と妻との会話の中には「どこかへ旅に出よう」という言葉が出て来る。これは2000年代の黒沢作品を考える上で大変興味深い。北海道や沖縄のような具体的な固有名詞は出ることがなく、主人公は「ここではないどこか」へ行こうと妻を誘うのである。だが昔は乗り気だった妻が今ははあまり乗り気ではなく、また「ここではないどこか」へ行くべき必然性も今は見つからないため、哀川翔にかけられた優しいいたわりの言葉として認識するのである。後半、死んだ娘の幽霊を妻が見るところは、『降霊』の原型と言っても過言ではない。

今作をもって、黒沢清と哀川翔とのVシネマにおける名コンビは10作で終わりを迎えるものの、黒沢はクライマックスで菅田俊に語らせた何気ない言葉の中に、様々な実験を繰り返したVシネマ時代への惜別の念を忍ばせている。その後も黒沢作品の重要な場面には常に哀川翔の姿があった。『ニンゲン合格』では妹の彼氏に扮し、『降霊』では神主に扮し、『回路』では幽霊の起源にまつわる重要な役柄として登場することになる。黒沢清にとって、Vシネマのスターである哀川翔と10本のVシネマを制作したことは、彼自身のやりたいことと、会社の制約の妥協点を探る上で非常に大きなヒントとなった。ある意味この10本のVシネマがなければ、2000年代の真の作家性の爆発はなかったのではないか?90年代後半の短期間での怒涛とも言える多作ぶりと、そこで生まれた10本のVシネマと、そこに挟まれる形で一つはみ出した『CURE』は、黒沢清のフィルモグラフィを考える上で、あまりにも重要なウェイトを占めているのである。

#黒沢清 #哀川翔 #菅田俊 #蜘蛛の瞳

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