5 多様体から解析空間へ

関数たちの零点の共通部分とは何なのだろうか。幾何学では、微分可能多様体、代数多様体、複素多様体などいくつか構造が知られているが、これらは、すべて、関数たちの零点の共通部分を張り合わせたものとして得られる空間の構造である。例えば、この連載で扱っている複素多様体は、局所的に正則関数たちの零点の共通部分として定義される集合が正則に張り合わさったものである。よく知られているように、現代幾何学では、多様体を考える際に外側の空間を前提としないので、あまり関数たちの零点の共通部分として多様体を考えないのであるが、基本は、空間というと、関数たちの零点の共通部分を張り合わせて得られる集合なのである。ただ、関数たちの零点集合として空間を考えると、必然的に、特異点というものを許した空間を考慮しなくてはいけないことは明らかであろう。特に、精緻な構造をもつ代数多様体を考える上では、特異点をもつ代数多様体をより詳細に考えることは必然となるようである。代数多様体を考えるうえで、特異点を許したものを考える必要があるように、代数構造の超越版である複素構造をもつ複素多様体においても、特異点を持つものを考えることが必要である。今回は、そういった特異点をもつ複素解析空間について述べることにする。

 関数たちの共通零点を考える際、関数たちとは、複素幾何学では、代数幾何学同様、ヒルベルトの基底定理により、正則関数たちのなすイデアルというもので定義する。正則関数のなすイデアルに属する関数の共通零点は、解析集合と呼ばれる。これから考えていく、複素解析空間とは、局所的に解析集合と同型になる空間のことである。局所的なデータを張り合わせて、大域的な空間を作るので、層を使った定式化が望ましい。つまり、細かな定義は省くが、複素解析空間は次のように定義される。

 定義5-1
局所環付き空間$${(X,\mathcal{O}_{X})}$$で、局所的に解析集合と局所環付き空間として同値になるものを、複素解析空間という。

 複素解析空間には、代数多様体同様、解析的部分集合をザリスキ閉集合とする位相が入る。解析的部分集合の補集合は、ザリスキ開集合と呼ばれ、考えている複素解析空間が既約な場合、ザリスキ開集合は稠密な部分集合となっている。定義5-1は、代数多様体の定義の類推なので、複素解析空間の基礎的な議論は代数幾何学と同様にして定式化することができる。筆者はあまりそういった定式化に馴染みがないので、興味のある読者は調べてもらいたい。以下では、複素解析空間の特異点について、きちんとした定式化をせずとも理解できるお話しとしたい。この場で重要なのは、特異点の正確な定式化ではなく、特異点のイメージである。冒頭に、関数たちの共通零点を考えたが、そういった零点集合を考えた際に、多様体のように滑らかな点ばかりではなく、特徴だった点が出現してしまうことは想像に難くないであろう。そういったイメージを持ってもらえれば十分である。

 そういったイメージで、複素解析空間は複素多様体と違って、一般的に微分形式と呼ぶものが定義できないことはお判りいただけるであろうか。その点が、複素解析空間の研究の難しいところである。ただ、特異点集合を除いて、複素解析空間は多様体なのだから、微分形式を全く定義できないわけではない。いささか強引であるが、次のように複素解析空間上の微分形式を定義してみる。

 定義5-2
$${(X,\mathcal{O}_{X})}$$を複素解析空間とする。$${\mathcal{A}^{p,q}(X)}$$を$${(p,q)}$$形式の芽のなす層とする。その上で層$${\mathcal{A}^{p,q}(X)}$$の大域的切断を$${X}$$上の$${(p,q)}$$形式という。

 この定義を使って、複素解析空間がケーラーであることが定義できるように思われる。いささか安直であるが、次のようにケーラー空間を定義してみよう。

 定義5-3
$${(X,\mathcal{O}_{X})}$$を被約な複素解析空間とする。定義5-2の意味で、閉じた正値の$${(1,1)}$$形式が存在するとき、$${(X,\mathcal{O}_{X})}$$をケーラー空間という。

 複素解析空間上の微分形式の正値性や外微分などは、容易に定義できるので、考えて見られたい。ケーラー空間、ケーラー多様体と似ているので、広中の定理を使って特異点を解消してやると、ケーラー多様体になるのは自明と思われるかもしれないが、必ずしもそうではないようである。ただ、コンパクト性を仮定すると、コンパクトケーラー空間は、必ずコンパクトケーラー多様体に特異点解消することができる。これは藤木先生によって最初に指摘されたように思われる。ただ、先にも述べたが、これが自明なことであると思わないほうがいい。特異点をもつ複素解析空間の大域的な構造は、特異点を解消してやると、大きく変わってしまうからである。どういったケーラー多様体への障害が発生するか分からない。実際、特異点を解消する操作はブローアップであるが、ブローアップを行うと、コホモロジーは変わってしまい、大域的な構造が大きく変化する。特異点をもつ射影代数多様体をブローアップしても射影代数多様体であることは自明だと思うが、複素解析的に定義されたケーラー空間では、ブローアップをすると、どうなるかは、それほど自明ではない。先にコンパクト性を仮定すると、コンパクトケーラー空間はコンパクトケーラー多様体へ特異点解消されると述べた。非コンパクトな場合どうなるのか、筆者は知らないし、あまり知られてないのかもしれない。興味のある読者は考えてもらいたい。

 長々と複素解析的構造と特異点解消に関して注意事項を述べたが、それは、前回まで述べてきた、非ケーラー多様体の複素解析空間への一般化を述べるためである。非ケーラー計量として、前回まで、balanced構造とstrongly Gauduchon構造について述べた。ご存じない読者も多いと思うので、ちょっと簡単におさらいしたい。

 エルミート計量とエルミート形式を同一視して考える。エルミート形式は微分形式であり、微分や積分が定義できるので、この連載では、エルミート形式をエルミート計量と呼んでいる。balanced計量とは、co-closedなエルミート計量のことを言う。つまり、

 定義5-4
$${X}$$をコンパクト複素多様体とし、$${n}$$をその複素次元とする。$${d \omega^{n-1} = 0}$$となるエルミート計量$${\omega}$$が存在するとき、$${X}$$をbalanced多様体という。

 strongly Gauduchon計量とは、次のような計量を言う。

 定義5-5
記号の意味は、定義5-4と同じく、$${\partial \omega^{n-1} = \bar{\partial} \eta}$$なるエルミート計量が存在するとき、$${X}$$はstrongly Gauduchon多様体という。

 一般に複素解析空間では、微分形式は定義できないのであるが、定義5-2のように複素解析空間上に微分形式を定義してやると、定義5-4や定義5-5を複素解析空間に一般化して、被約なbalanced空間やstrongly Gauduchon空間が定義できるのは、見やすいであろう。以下、複素解析空間は被約性を仮定する。ここでコンパクトケーラー空間と同様に、コンパクトbalanced空間や、コンパクトstrongly Gauduchon空間の特異点解消が、それぞれ対応するコンパクトbalanced および、strongly Gauduchon多様体になっているのかどうか、気になるが、実は、これはまだだれも論文にはしていない。コンパクトbalanced多様体に特異点解消されるコンパクト複素解析空間を、クラスCとの類推でクラスBと呼んだりする。クラスBのコンパクト複素解析空間はbalanced空間なのか、逆に、balanced空間はクラスBなのか、何も明らかになってないのが現状である。strongly Gauduchonについても同様に考えることができ、ここでは、クラスsGと書くことにする。

 なお、特異点をもつクラスCではないクラスBの複素解析空間を構成することは容易である。例えば、クラスCの複素解析空間と、非ケーラーbalanced多様体の直積がその例である。特異点をもつコンパクトbalanced空間を構成することも容易にできるが、その解説は該当する論文に譲ろう。クラスsGについても同様の考察ができるが、ここでは省略する。

 以下、クラスBとbalanced空間の同値性について私見を述べたい。まず、次の定理が知られている。

 定理5-6
$${X}$$をコンパクトbalanced空間とする。$${X}$$の特異点解消において例外集合の余次元が$${2}$$以上の時、$${X}$$はクラスBに属する。

 一見、この定理により、多くのbalanced空間がクラスBになると思われるかもしれないが、そうではない。例外集合の余次元が2以上になる特異点解消は、あまりないと思われるからである。特異点解消というと、広中による大定理があるが、その特異点解消では、ブローアップの連続を取る。必然的に、例外集合の余次元は1となる。特異点解消により、大域的な構造が大きく変わるのは明らかであろう。ちょっとした改変で特異点解消できることもあるかもしれないが、一般には、そうではない。

ただ、ここではbalanced空間はコンパクトであると考えている。コンパクトケーラー空間がコンパクトケーラー多様体に特異点解消できるように、同じ論法でコンパクトbalanced空間はコンパクトbalanced多様体に特異点解消できそうな気がするが、どうだろうか。コンパクトケーラー空間の特異点解消は、ケーラー射による改変であるが、改変する集合の近傍がケーラー空間であれば、コンパクトbalanced空間の場合も、コンパクトケーラー空間のケーラー多様体への特異点解消と同様の論法とつかって、balanced多様体に特異点解消するといえるかもしれない。これだけでも多くのコンパクトbalanced空間が、balanced多様体に特異点解消されることが言えそうであるが、問題なのは、特異点周辺の改変する近傍がケーラー空間とは限らないということである。こういった場合、コンパクトケーラー空間の特異点解消と同じ論法は使えないように思われるがどうだろうか。balanced射とか定義できるのであろうか。研究課題のように思われる。

 逆にクラスBのコンパクト複素解析空間は、balanced空間であるかどうかはよく分からない。クラスCのコンパクト複素解析空間がケーラーとは限らないのと同様に、クラスBという概念は、balanced構造よりも大きな枠組みかもしれない。例えば、先に挙げたクラスBの例である、クラスCのコンパクト複素解析空間とbalanced多様体の直積には常に、balanced計量が定義できるのであろうか。クラスsGについても同様である。

 以上、かなりマイナーな研究領域を今回は紹介した。この研究領域は、ここ5年でなされたことであり、ほぼ手付かずの状態である。伝えたかったのは、balanced構造やstrongly Gauduchon構造というよりは、複素解析空間と複素多様体の幾何構造の違いである。おなじbalanced計量が定義できるからと言って、複素解析空間と複素多様体では状況が異なるのである。それが、特異点解消を通じてどのようにつながっていくのか、筆者にはまだ分からないが、今後の研究を期待したいと思っている。

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