さよならの推論

もうすぐ春です。新しい場所での新しい生活。そして新しい出会い。人生は驚きと冒険に満ちています。

春は別れの季節です。聞きなれた声、嗅ぎ慣れた匂い。独特な考え方。新しい出会いとはうらはらに、新しい別れがそこにはあります。

お別れをどうするか、それがぼくには重要な関心ごとなのです。

映画「リトル・ダンサー」について
ビリーは11歳。炭鉱夫の父と同じく炭鉱夫の兄、祖母と暮らしています。お母さんはいません。労働組合のリーダーである兄と父を含めた炭鉱夫たちはストライキの真っ只中。英国のブルーカラーの小さなコミュニティに暮らし、ボクシング教室に通うビリーは、ふとしたきっかけで女の子しかいないバレエ教室に参加するようになり、やがてバレエに夢中になってゆきます。


「また、いつか」
ぼくはこの言葉がとても嫌いでした。この言葉を使うほとんどのひとは、またあなたに会いたい、と本気では思ってはいない気がするからです。ぼくは、なるべく正しく気持ちを伝えたいのです。この言葉を使う大人はみんな、狡賢いやつらだと思うのです。
「もう、会わないかもしれませんが、お互い頑張りましょう」「なんか困ったらいつでも電話してください」「来月にまた会いましょう」
ぼくは精一杯、自分なりにですが、正しいと思える言葉を選びました。


バレエなんて男のやることじゃない。父や兄にそう言われても、もうビリーは踊ることに夢中です。その才能を見出されたビリーは、ロンドンのバレエ学校のオーディションを受けることを提案されます。ビリーは友達のマイケルにオーディションを受けるべきかこっそり相談してみます。マイケルは反対だと言います。もしオーディションに受かってビリーがいなくなると「俺が寂しい」からです。


年齢だけでいえば、ぼくはもう立派な大人です。たくさん出会いがあって、いつも別れがありました。「また、いつか」そう言えば、また会える気がします。実際そうなることもありますが、ほとんどの場合で二度と会うことは稀です。「また、いつか」その言葉を使ってしまうと、別れの寂しさを正確に伝えられない気がします。もう会わないかもしれない、その前提を踏まえれば、正確な感情でお別れすることができる気がします。これはぼくの我儘です。お為ごかしの「また、いつか」がぼくは嫌で堪らないのです。


ビリーは父の前で精一杯踊ります。僕はバレエがしたい!踊ることでビリーは自分の気持ちを伝えました。ビリーの踊りを見た父は、ビリーのためにストライキを破ることを決意しました。才能のある弟、弟の才能のためにストライキを破った父。兄のトニーはストライキのリーダー。「俺を許してくれ」父はそう言います。みんなは家族です。

ぼくには2つ年上の兄がいます。良いも悪いもなく、ぼくらは兄弟です。トニーはビリーとの別れ際"I miss you."と伝えます。「お前がいないと寂しい」昔観たVHSの字幕ではそう訳してあった気がします。ぼくはそのシーンでいつも泣いてしまいます。

だから、ぼくはお別れというのは出来る限り丁寧にするべきだと考えてきました。ビリーたち家族のように、きちんとさよならを伝えるのです。それがぼくの推論でした。

映画「ノマド・ランド」について
特定の住居を持たず、季節労働に従事しながら改造した車で転々と移動しながら暮らす現代アメリカにおける「ノマド」たちに関する映画です。主人公のファーンはエンパイアという町の教師でした。エンパイアはU.S.ジプサムという、ジプサム(石膏)ボードの大きな工場に依存して成立する町でしたが、リーマンショックの煽りを受けたU.S.ジプサムの巨大な工場とエンパイアは文字通り地図から消えます。夫のボーを最近亡くし、仕事をも失ったファーンは身の回りの荷物を売り払って整理し、小さなヴァンに残りを詰め込んで漂流の旅に出ます。ファーンはその旅のなかで様々な境遇のノマドたちと出会います。不本意ながらこの生活を選んだひと、社会に馴染めず自ら望んで孤独を選んだひと。

そんなノマドたちの互助組織を取り仕切るボブ・ウェルズは、路上で暮らす生活への思いをファーンに溢します。

"息子のことは誰にも話してないんだが、今日が三三歳の誕生日になるはずだった。五年前に自殺した。自分に問いかけ続けた。どうすれば息子のいない世界で生きていけるのか。答えは見つからず、とても苦しくて長い日々を過ごした。

ある時気づいた。誰かほかの人を助けたり、手伝うことが自分の生きる目的になると。

いつか、それが私の全てになった。

私たちのように高齢になれば、悲しみや喪失を抱えることになる。そして、それを乗り越えられないままでいる。でも、それで良いんだ。それが当たり前なんだ。

道で暮らすこの生活のいいところは、最後のさよならがないところだ。何百というひとと出会ったが、私は本当のさよならは言わなかった。「また、いつか会おう」そう伝えて、実際そうした。一ヶ月後か、一年後か、数年後かわからないけど、必ずまた会った。

だからそれを続けてれば、また息子に会えると思うんだ。
君もボーにまた会える。
この道にいれば、共に過ごした時間を思い出すことができる"

映画「ノマドランド」より

完璧な論理です。ぼくはすっかり混乱してしまいました。

「また、いつか」は不完全です。だから、ぼくはそれを使おうとしませんでした。しかし、ボブの「また、いつか」は完璧に思えます。

完全であることは難しい。この世界は、完全であり続けるにはあまりに複雑です。歳を重ねて、大切なものや、失ったものが増えてゆくと、一番大切なものが沢山あったり、一番辛いことが沢山できたりします。世界は理不尽に満ちていて、それでも生き続けなければいけません。のぞむ、のぞむべくに関わらず、長く生きたひとはパラドックスを抱えることになります。

ボブはいつか死にます。

いくつかの「また、いつか」という約束を果たすことができずに。それは嘘になります。それをどう捉えるべきか、ぼくはこの混乱と矛盾を抱えたまま何年も過ごしました。


友達の武川の推論

この話しを聞いた、ぼくの友達の武川が良いことを言いました。

「嘘には二種類ある。ただの嘘と、嘘になってしまった嘘とだ」

ボブは結果として嘘をつくことになるかもしれません、だけどボブの”また、いつか会おう”はその約束の時点では、破るつもりのない本当の気持ちです。

「嘘になってしまった嘘は、良いんだ」
武川はそう言いました。

結果として嘘となってしまったことも、ゆるやかに拡大された解釈を導入すれば”良い”ものとなります。これはぼくにとって大きなパラダイムシフトでした。このあまりに複雑な世界で、存在を維持するためには、完全さは緩和されなければなりません。それがぼくが気づかされた秘密です。

リトル・ダンサーを観たぼくは「さよならは丁寧にするべきだ」という推論を得ました。人生はさよならばかりです。だからこそ、二度と会わないかもしれないと思ってさよならを言うことで、寂しさがきちんと伝わるはずだと思ったのです。それは一つの論理展開としては間違ってはいませんでしたが、すこしばかり限定された文脈においたことだったのかもしれません。


"I miss you."

は丁寧なさよならではなく、素直な気持ちを伝えただけなのです。
もっとも重要なのはさよならをきちんと言うことではなく、気持ちを伝えることなのかもしれません。


では、つぎに大切な人とお別れをしなければならないときに、ぼくはどうすべきでしょうか。

「あなたがいなくなると寂しい。いなくならないで欲しいと言えば、わがままな気がする。だからそうは言わない」

人生は驚きと冒険に満ちています。
荷物が増えすぎてくたびれることもありますが、もっとも美しいものを見たり、もっとも美しいものを感じたりできます。
ゆるやかに拡大され緩和された世界なら、完全性に満たされることを許容します。そして、ぼくたちはその完全な世界を確かに感じることができます。

「さよなら。また、いつか会おう。かならず、そうしよう」

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