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p.57)問いと打席は多いに越したことない

こんばんは。コノテ(@kmbcmp)です。

今日も仕事ネタですが、社会には常に課題があって、その課題を解決するソリューションが存在していますよね。

ただ、その課題の持ち方に疑問を感じることがあって、その解決策で本当に解決できているのかって思うんです。


●エゴを感じる課題の持ち方はしない

最初に、僕はお金が好きです。

だからちゃんと頂く対価に対して、解決策を届けたい相手にちゃんと届けられにどう役に立っているのかまで考えて仕事に取り組みたい!

めんどくさいやつなんだけど。。。


単純にお金儲けだけしたいなら、意味とか社会とか価値とか考える必要ないかもしれないし、適当な課題を見つけてあたかもその課題を解決したほうが良いんだとポジションをとってサービスを展開している事業もアリ。

でも、僕自身が事業者のエゴを感じてしまうサービスは嫌いだから、自分ではそういう事業に関わりたくないなーと思う。


だから、聞こえの良い課題や解決策なんかは思考停止しがちなので、本当に解決しなきゃいけない課題なのか一歩踏みとどまって自分に問いかけるんです。

ただの考え過ぎかもしれないけどさ。


●やりたいコト、欲しいコト、自分のためじゃない方が結果的に自分のためになるんじゃないかという仮説

よく自己啓発系だと「やりたいこと」「実現したいこと」とか問われて、過去僕はその方向へ傾倒してたけど、結果的に僕の努力が足りなかったのか実現はできず・・・


だからこの「問い」が本当に必要なのか疑うことが多くなった。

時間もお金も人脈もいらなくて、問いの数だけ打席に立つ回数も増えていき、良い問いができたときは勝手に時間を作ろうとするし、人にも相談する機会が増えるし、結果的に対価としてお金も頂ける回数が増える


「問う」ということは、結果的に打席に立つ回数も増えて良い循環を生み出してくれるんだと気付いて、自分のことを考えるより周りを見渡して考えるようになった。


●必然的に思考して、打席にバンバンたってアップデート

ひたすら「問い」が大事

賢くなるとか、偉くなりたいとか、スキルが高いとか考える前に、目標の山を登るためにてっぺんにたどり着く目的が最も重要。

だからこそ、その山を登る必要があるのか僕は「問う」

しっくり来なければ登る理由なんてないんじゃないかと疑う


しっくり来たときはもっと「問い」を深くして、打率を上げる努力をする。

この繰り返しがまた良い「問い」を生む。


当たり前なことだけど、考えて終わりじゃなくて、そこから先はやり切り力。




ということにやっと気づけたので、今は登る山の姿が霧がかってよく見えないので、ひたすら姿が見えるまで「問い」と「やり切り」で麓にたどり着きたい。

それじゃ!


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