見出し画像

形あるものはやがて滅びる

物心ついた頃から、いまだに頭の片隅にこびりついて離れない一文があります。

「形あるものはやがて滅びる」

私がこの言葉を聞いたのは、国民的作家として知られる井上靖(1907~1991)の口を通してです。

NHKの30分番組『国宝への旅』で、法隆寺金堂の仏像を取り上げた回がありました。
その番組内で、井上靖がこの言葉を発していたのが強烈に印象に残っています。

ネット上でデータを確認すると、この回の放映は1987年10月8日でした。当時スウェーデンに住んでいた我々の家族のために、日本の祖父母がこれをVHSにダビングして、食糧品などの他の品々と一緒にSAL便で送ってくれたのでした。
私は遅くとも4歳から5歳になる間の時期に、録画でこの番組を見たことをはっきり記憶しています。

『国宝への旅』では、毎回名だたる文化人が案内役を務めていました。
平山郁夫、杉本苑子、吉野弘、小川国夫、中沢新一、三善晃、須田剋太・・この辺りの面々は、今でも画面越しの語り口とともに鮮明に覚えています。
井上靖はこの中でも相当のビッグネーム。その時点で既にかなり高齢でしたから、通常ならば本人が各国宝の所在場所(寺社や博物館など)に出向いて収録に応じるところ、自宅の居間でのインタビューという形で、適宜コメントを発していました。

井上靖のコメントの部分はほとんどカットなしだったと記憶しています。お茶をすする姿もそのままに・・

そんな中発せられた「形あるものはやがて滅びる」という言葉は、実は画家の荒井寛方(あらい・かんぽう)(1878~1945)先生がおっしゃった、という流れで紹介されたのでした。
この荒井寛方という、格調高い響きがする名前もまた、子供心に妙に頭に残りました。

生前の荒井寛方

1945年という没年から察すると、戦禍によって命を落としたのであろうと思いきや、実はそうではありません。

法隆寺の金堂壁画の模写作業のため、栃木県にある自宅から奈良に鉄道で移動する途中に、脳溢血で急死したのです。
あの大混乱の時期に、まだ汽車での遠距離移動が可能だったのですね。

果たしてどういうコンテクストであの言葉が出たのか、最近になって気になってたまらなくなり、確たる出典を探すことにしました。
するとこちらの本の存在を知りました。

井上靖『忘れ得ぬ芸術家たち』新潮文庫版

このエッセー集は、井上靖が作家として一本立ちする前、毎日新聞社の美術部の記者として生計を立てていたときに、日本を代表する芸術家たちを取材したときのエピソードを中心に書き連ねたものです。単行本はおろか文庫版でさえ既に絶版になっていることが分かり、今年に入ってから中古で購入。

2つ目に「荒井寛方」の章がありました。
毎日新聞を退社後に、法隆寺を訪れて記者時代を回想するところからこの章は始まります。
井上靖によると、その頃は「記事に書くネタに困ったら法隆寺に行く」くらいのノリであったのです。

前述のように荒井寛方は、日本美術の至宝中の至宝というべき、法隆寺の金堂壁画の模写に従事したのですが、それは当時の文部省からの指名を受けて、他の名だたる日本画家たちとともに分担しての作業でした。

井上靖は、美術部の記者として作業の進捗状況や、現場の人々の声を取材するために頻繁に法隆寺を訪れていました。

法隆寺金堂壁画『阿弥陀浄土図』(6号壁)
法隆寺金堂壁画『薬師浄土図』(10号壁)

荒井寛方は、金堂壁画のルーツともいわれるインドのアジャンター石窟の壁画の模写経験があり、まことに適任だったと言えるでしょう。

アジャンター石窟の菩薩像

しかしその作業は、苦労の連続でした。
そうでなくても戦禍がますます激しくなる時勢柄、ストレスは大変なものだったでしょう。
他の画家たちがなかなか井上靖に対してコメントを発してくれなかった中で、荒井寛方だけはそうではなかったそうです。

荒井寛方は風貌も話し方も穏やかだった。
何を聞いても、自分の考えていることをありのまま話した。

井上靖『忘れ得ぬ芸術家たち』新潮文庫版、p.29

井上靖特有の、簡潔であり誌情溢れる文体によって語られた、荒井寛方の在りし日の人となりです。

そして、当時荒井寛方が宿としていた法隆寺の塔頭(たっちゅう)の阿弥陀院で当人と相対したときの場面・・井上靖はそれを昭和18年、または19年のことと回想しています。
荒井寛方はその日、風邪を引いていたために法隆寺金堂内での作業に行くことを諦め、その阿弥陀院の座敷の隅にある炉のところで茶を飲んでいたという描写があり、それに続いて核心的な部分に入ります。

「模写も大変ですね」と、そんなことを私が言うと、
形あるものはやがて滅びますよ」と彼は言った。
私は一時間以上もその部屋に居たのだから、その時いろいろのことを彼と話した筈であるが、この彼の言葉だけが鮮やかに私の記憶に残っている。

井上靖『忘れ得ぬ芸術家たち』新潮文庫版、p.36(太字は私が追加)

そう、子供の頃の私に向けてテレビの画面越しに井上靖が語っていた言葉とは、まさにこれだったのです!

このやりとりから程なくして、旅先での荒井寛方のあっけない死を偶然新聞記事の片隅で知った井上靖は、こう続けます。

この話を聞いた時、いかにも荒井寛方らしい死に方だと思った。
彼の魂は真直ぐに法隆寺の金堂に向かって翔んで行ったことだろうと思う。彼自身の受け持った壁画は、右の天人の一部を遺して、ほぼ完成していたそうである。

井上靖『忘れ得ぬ芸術家たち』新潮文庫版、p.38

模写の完成を見届けることも、また終戦を見届けることもなく、急死してしまった希代の画家。この一連の文章の奥からは、彼に対する作家自身の深い尊敬と共感があるように感じられます。

戦前の絵ハガキに掲載された、焼損前の法隆寺金堂

金堂壁画のその後の顛末は、ひょっとするとご存知の方も多いでしょう。
電気座布団から発火したとも言われますが、真相は未だ不明で、いずれにせよ昭和29年の1月26日に発生した火災によって、全部黒焦げになってしまいました。
「焼失」ではなく、「焼損」です・・そして、せっかくの模写も半数ほどが灰燼に帰してしまいました。

法隆寺金堂壁画『十一面観音像』(12号壁、焼損後)
1949年1月26日撮影、翌日付の『朝日新聞』より
焼損壁画(10号壁)に合掌する法隆寺の佐伯定胤貫主

つまり荒井寛方は、この悲しい結末を幸いにも(?)知らずして世を去りました。

一方で、戦後すぐのこの出来事を体験した井上靖は、あの言葉について思いをめぐらせます。

再び、荒井寛方の、形あるものは滅びると言った言葉が、地面を叩く烈しい雨脚を見詰めている私の脳裡に浮かんで来た。しかしその言葉を荒井寛方は、果してどのような意味で語ったのであろうか。形あるものは必ず滅びるのだから、いまのうちに修理しておくべきだとも、あるいはまたその反対に、修理しても始まらない、人間の手など触れるべきでないとも、どちらでも自由に解釈ができそうである。
彼はどちらの意味で、その言葉を言ったのであろうか?そしてどんな気持ちで模写の筆を握っていたのであろうか。総てが灰になってしまったいま、考えても始まらないことであるが、私は壁画模写陣の中で、最年長者であり、信心深かった温厚な画家の風貌を思い浮かべながら、その言葉の意味を考えるともなく考えていた。

井上靖『忘れ得ぬ芸術家たち』新潮文庫版、p.26-27

まことに含蓄のある文章です。『国宝への旅』の中での肉声で語る井上靖は、さすがにここまで饒舌ではありませんでした。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ 

この荒井寛方の言葉を、幸いなのか不幸なのか、ともかくも人生のかなり早いステージで脳裡に植え付けられてしまった私は、ふと立ち止まってこの言葉の意味を考えることが多いです。

そもそも、自分がやっている「音楽」は形のないものではあるけども、それだっていずれ滅びることがあるのだろうか?

例えば、「楽器」という形あるもの。「楽譜」という形あるもの。
演奏者」または「聴き手」という形あるもの。

それらがいずれもなくなったとき、やはり音楽そのものも滅びてしまうのでは・・一抹の不安と怖れとともに、途中からはだいたい思考が堂々巡りになってしまって、それ以上考えるのを時点でやめてしまいます。

だいたい、自分が滅びた後のことなど、そんなに気にする必要はないのかも

最期に、惜しくも焼損してしまった金堂壁画について。
最新のデジタル技術を駆使して、このような素晴らしいサイトが出来上がったので、これにより往時の様子をバーチャル体験することができます。

あの世でまた対談しているであろう荒井寛方と井上靖の両名も、これを見たらびっくりすること間違いなしです!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?