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生き方、働き方の変化/コンビビアリストとは~コンビビアルなマネジメント④

 コンビビアルなコミュニティ/場所を取り戻すには、まず個々人がコンビビアリストに立ち戻ることが必要です。
 しかし、これまでの社会は、ともするとコンビビアリストには生きにくいものでした。高速で無限に成長することを目指した社会で、効率的な機械のひとつの歯車として機能することが多くの人に求められていたからです。

 そして「教育」はそのような社会に適合するような人材をうみだすものとなってきました。このような社会、教育環境から埋め込まれたバイアスはとても強力です。個人も、企業をはじめとする組織も、まずはこのバイアスを認識する必要があります。特に、組織を率いるマネジメントの役割を担う方々がそれを実践し、コンビビアリストにならなければその変革のスピードはあがりません。希望に満ち溢れた未来を阻害するだけの存在になってしまいます。

 既に世界は価値観を含め、大きく変化し、様々な前提そのものが質的に組み替わりつつあります。これまでの惰性での経験知では判断を見誤ることになります。そのために必要なこと、それは世界を再解釈するための知の基盤を再構築すること、これまでの思考形式を粉々に壊し、新しい思考形式に入れ替える、ことです。

 昨今、働き方改革と盛んに叫ばれているようですが、その実体は働かせ方改革でしかありません。今、必要なことは、働き方を変える「環境」を整えることです。マネジメント・リーダー層の働き方を根本から徹底的に変える必要があります。ボスのケツの穴を舐めるだけの中間管理職はいらないですし、ケツの穴を舐められて喜ぶボスは排除しなければなりません。この章では、新しい思考形式の基盤となること、そしてコンビビアリストの要件についてお話します。

 最初に改めて理解しておくべきは二〇二〇年代というものの位置づけです。数十年単位の短期、数百年単位の中期、そして数千年単位の長期、それぞれの時間軸での波動変化が重なっているのが、二〇二〇年代です。これらの波動変化の重なりにより、複数の次元で大きな変化が発生しています。複数の次元とは、社会、文化、環境、経済、技術等であり、これらの次元の変化に対応するには、しなやかで強靭な個人や組織でなければなりません。短期波動変化で起きている諸現象は、中期波動変化において出現したもの〈近代〉の限界において発生しています。新しい思考形式の基盤は、中期波動の可能条件の再確認と、更に長期波動におけるビジョンをもって、再構築することが求められます。

 まずは、このような大きな流れの真っ只なかにわたしたちは位置していることを再認識しておきましょう。繰り返しになりますが、様々な前提そのものが質的に組み替わりつつあるので、これまでの惰性での経験知では判断を見誤ることになります。

 短期中期長期の波動変化の重なりで、生きること、働くことの位置づけも大きく変化しつつあります。変化せざるをえないという方が正しいかもしれません。みなさんも体感しつつあるのではないでしょうか。その体感しつつあることを少し整理してみます。

 まず、働くことを「労働」という観点から考えていきましょう。
 労働という言葉にみなさんはどのようなイメージをもつでしょうか? 強制労働的な一種ネガティブなイメージをもつ方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 ブリタニカ国際大百科事典では、労働を次のように説明しています。

「労働」
  人間と自然との関係にかかわる過程。
  すなわち/人間が/自ら自身の行為によって/自然との関係を統制し/価値ある対象を形成する過程が/労働である。労働は/社会内では/通常/協業や分業の形態に編成されて定在する。労働能力 (肉体的・精神的)のことを労働力という。マルクス主義によれば/資本主義社会では/生産手段を持たない多くの人 (労働者階級)は労働力を商品として売らざるをえず/生産過程に投入されて剰余価値を生みだすため/生産手段の所有者 (資本家階級) に搾取されることになる。

 近代社会において「労働」のイメージは大きく変わりました。しかし、そもそもの意味は、人と自然との関係に関わる過程、のことを指していました。
 その「労働」ですが、チャールズ・ハンディは、その著書『パラドックスの時代』(ジャパンタイムズ)で労働を五つのカテゴリーに分けたうえで、これらのポートフォリオの再構成を推奨しています。

   1.費やされた時間によって報酬を受ける賃労働
   2.得られた成果によって報酬を受ける自由業的労働
   3.家の管理や維持に関する家事労働
   4.慈善団体や友人、家族などに対する無償労働
   5.学びや自己形成に繋がる教育的労働

 特に1の、費やされた時間によって報酬を受ける「賃労働」のみに依存することは避けるべきだと警鐘を鳴らしています。警鐘を鳴らしたのは、一九九〇年代です。二十年以上前に警鐘されていたことではありますが、改めて今、3の家事労働は勿論、4の無償労働及び5の教育的労働を1の賃労働や2の自由業的労働と同じレイヤーでポートフォリオを組む意識が必要なのではないでしょうか。まずは、労働は賃労働のことだけ指すのではないという意識を深く持たなければなりません。
 ここでお伝えしたいことは、「賃労働」自体の否定ではありません。労働にも様々なカテゴリーがあることを意識し、そのポートフォリオを自律的に組む必要がある、ということです。
 そしてもう一つ重要なのは、「賃労働」であっても「賃労働者」であってはならない、ということです。

 では、この「賃労働者」とは、どのような者でしょうか。

「賃労働者」とは…

他律的で、自分を殺して、生活の糧を得るためにAgentとして振舞っている人

 では、「賃労働者」ではない、ということはどのような状態なのでしょうか。

自律的で、自分をさらけだし、自分らしい振る舞いが仕事にもなっている状態

 これが、コンビビアルな状態の労働者(Capitalian:資本者)です。
 二〇二〇年代は波動変化が重なり、生きること、働くことの位置づけが他律的に変化させられる時代です。コロナ禍での反射的反応はまさに他律的アクションの典型です。変化を体感している人が多くなっていること自体は良いことのようにも思えますが、一方でわたしは一抹の不安を感じています。それは、この変化が他律的な学びのようにみえるからです。

 学ぶということは、人や組織が様々な知見をとおして、自らの行動の基準や行動の前提となる「知の基盤」を変更したり修正したりする自律的なアクションのことです。きっかけが他律的なものであってもよいのですが、どこかの時点、それもできるだけはやめに、自律的なアクションに変換させない限り、自らの行動基準や知の基盤の変更には至りません。そしてそうであれば当然社会全体も何ひとつ変わりません。「イノベーション」できないということになります。イノベーション(innovation)の語源は、ラテン語の<innovare>です。内側を意味する<in>と変化を意味する<novare>を組み合わせたもので、内側としての自分自身を変える、というニュアンスを含んだ言葉なのです。

 昨今、様々な分野でイノベーションが求められていますが、イノベーションは他律的なアクションでは起こりえません。変化が激しく他律的な要請が多い環境だからこそ、わたしは自律的なアクションに変換する「姿勢」がとても大切になってきていると考えています。

 エティエンヌ・ド・ラ・ボエシが記した『自発的隷従論』(ちくま学芸文庫)をご存知でしょうか?十六世紀の若者が記した檄文ともいえる文章です。自発的隷従、刺激的な言葉です。支配/被支配構造の本質を喝破した古典的名著で、後のフランス革命にも影響を及ぼしたと言われています。目の前にある「自由」にどうして手を伸ばさないか、その本質が語られています。

 ヨーロッパでは、フランス革命をはじめ、「自由」を自らのチカラで勝ち得てきた歴史がありますが、日本においてはその意識が希薄です。「自由」は、お上から与えられるもの、という意識が色濃く残っているように感じます。だからこそ、意識的なイノベーション、自律的な学びやアクションが必要なのです。逆にいえば、そのアクションをとることさえできれば、日本ほど伸び代がある「場所」はないとわたしは感じています。

 以下は『自発的隷従論』からの抜粋です。

◇ 軛のもとに生まれ、隷従状態のもとで発育し成長する者たちは、もはや前をみることもなく、生まれたままの状態で満足し、自分が見いだしたもの以外の善や権利を所有しようなどとはまったく考えず、生まれた状態を自分にとって自然なものと考えるのである。

◇ 習慣はなによりも、隷従の毒を飲みこんでも、それをまったく苦いと感じなくなるようにしつけるのだ。

◇ (一方は)自由をかつて手にしたことがなかったのだから、自由に対して愛惜の念をもつことは不可能だったし、(他方は)自由をひとたび味わったがゆえに、隷従に耐えることは不可能だったのだ。

◇ たしかに人間の自然は、自由であること、あるいは自由を望むことにある。しかし同時に、教育によって与えられる性癖を自然に身につけてしまうということもまた、人間の自然なのである。

◇ 自分を愛してくれる者には用心深くなり、自分をだます者には素直に従うのが、つねに大多数を占める俗衆どもの性質というものである。

◇ 友愛とは神聖な名であり、聖なるものである。それは善人同士の間にしか存在しないし、互いの尊敬によってしか生まれない。それは利益によってではなく、むしろ生きかたによって保たれる。

◇ しじゅう目を見開き、耳をそばだてて、どこからこぶしが飛んでこないかと身がまえ、罠が仕掛けられていないかと探しまわり、仲間たちの顔色をうかがい、裏切りを見破ろうとしているとは。だれにでもほほ笑みかけながら、その実すべての人を恐れているとは。はっきりとした敵も、たしかな友もなく、つねに笑みを浮かべていても、心は恐れおののいているとは。陽気にもなれず、悲しみを表すすべもないとは!

◇ 自発的隷従の第一の原因は、習慣である。

◇ もう隷従はしないと決意せよ。するとあなたがたは自由の身だ。

 自発的に何かに隷従するのではなく、自律的に自らの人生を切り拓きましょう。ここでわたし達がアクションを変えなければ、未来の世代、子どもたちにその習慣が継承されてしまいます。

 まずは、チャールズ・ハンディが一九九一年に推奨したポートフォリオの再構成を考えることをしてみては如何でしょうか。様々な労働のカタチがあることを意識するだけで、日頃のアクションがこれまでとは違った視点で位置づけされていきます。直接的にお金を生みだすことがない労働があってよいのです。むしろそのようなものがあるのが自然なのです。それぞれがコンビビアルになるように「再構成」すればよいのです。
 そうすれば、その瞬間から、諸々のアクションのコンテクストが一変します。これまで見えていた世界とはまったく異なる地平がそこに拡がっているはずです。生きること、働くことの再構築の実体化です。

 人生百年時代だからこそ、生きることと働くことの自然的な統合、つまりコンビビアルな生き方、が豊かさの源泉になるとわたしは確信しています。

 「世の中の分業が進んでいくと、アリの社会のように個人というものが失われていく。あまり個人の判断力を必要とされない社会が実現され、そのこと自体に疑問すら持たず、唯々諾々と生きていくようになってしまう。それに抵抗するためには、いつもことの本質がどこにあるのかを見きわめようと努める勇気がいる」サイエンスライターである吉成真由美の言葉です。

 本質がどこにあるのかを見きわめようと努める勇気、そしてその本質を更に掘り下げていく胆力、が求められる時代の転換期にわたし達はいるのです。それはとても愉快で幸運なことであり、同時に未来の子どもたちに対してとても責任があることでもあります。

 子どもたちの働き方も大きく変わります。何かひとつに(思考的に)縛られるのではなく、例えば、音楽家であり、データアナリストであり、地質学者である、でいいのです。むしろ、それこそが自然なことなのです。その自然なことを、不自然のように感じるように習慣づけられていることを「大人」はしっかりと気づいて、こどもへのアクションを変化させなければなりません。少なくとも、そのような選択肢があるのだと子どもたちが思える環境、対話で満たすこと、を目指すべきではないでしょうか。
 「大人」ではなくコンビビアリスト(オトナ)にならなければならないのです。

続く

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