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日常に垣間みえる希望~コンビビアルなマネジメント①

 未来は希望に満ち溢れている、とわたしは確信しています。
 現代社会は、人びとの不安を煽る情報が多く飛び交っています。そのような情報しかないようにもみえるくらいです。しかし、わたしにはまったく「不安」はありません。それは、希望に満ち溢れる未来を日々、様々な「場所」で、感じているからです。
 わたしが具体的に何をみて、「希望」を感じているのか、まずはそこからお話をしていきます。

 富士北麓の森のなかにフィンランド教育をベースにした小学校、素和美小学校があります。
 二〇一三年の開校で小学校としてはまだ新しいのですが、その母体であるマリア国際幼稚園は一九九八年に設立されています。豊かな森のなかにある学び舎はいつも愉しげな子どもたちの声で溢れかえっており、フィールドを駆けまわる子どもたちの姿が見えないときはないような、全校合わせて七十名ほどの小さな学校です。
 この素和美小学校が目指していることは、子どもたちのもつ「想像力・知的好奇心」を信じ、「自由」を守り、国際感覚を備え、自ら学び、
課題設定できる人財の育成です。
 「国際感覚を備え、自ら学び、課題設定できる人財」、これは多く
の企業が求めている人財像に近いのではないでしょうか。
 そのような人財を育成する教育、みなさんはどのようなものを想
像されますでしょうか? 選ばれた子どもたちに高度な教育を施し
ているように感じた方もいらっしゃるかもしれません。

 しかし、この学校現場でみることができるのは、「普通」の子どもたちが何も「教育」されることなく、愉しく走り回っている日常だけなのです。

 素和美小学校は子どもたち主体の学校、子どもたちが自分たちで運営する学校です。

 Welcome Party(入学式)やSports Day(運動会)、Summer festival(夏まつり)、Excursion(遠足)など様々な行事の企画・運営、そして収支計算まで子どもたちが行います。英語表記が多いのは、先生と子どもたちのコミュニケーションが英語でなされているからです。

 これらイベントの準備は前日ギリギリまでかかることもありますし、当日のスケジュールも平気で一時間、二時間押すこともありますが、Student Council(生徒会)の元、Executive Committee(スクールリーダー)やLibrary committee(図書委員)、Music committee(音楽委員)、Physical Education committee(体育委員)を中心になんとかやりきっていきます。
 大人の目線からみると、あまりにもカオスな状態なので到底こなせるように思えないことも多いのですが、それでもすべてのプロジェクトが無事にこなされていきます。

 素和美小学校のCredo(信条)のひとつに、「One for All, All for One」があり、入学当初からこの信条をすべての行動のベースにしているので、子どもたちは当たり前にこのカオスな状況のなか、ああでもない、こうでもない、ああすればよい、こうすればよい、と対話しながら進んでいきます。設立当初は、ハラハラドキドキすることも多かったのですが、最近は「子どもたちでなんとかするんだろう」と思えるようにまでなってきました。

 そして学校内には、JobとClubという二種類の活動があります。
 Jobは、学校の具体的な運営に関わる活動で、Broadcast(放送部)、School shop(購買部)、News paper(新聞部)、Bank(学校内銀行)があります。Bankは素和美小学校内で流通する通貨(Snuf)を管理する役割です。1 snuf(スナフ)=二十二円でSchool shopでお菓子や文房具を購入するときやイベントの際に使うことができます。子どもたちは、これらのJobをすることでSnufを手にします。ちなみに、二十二円と非常に中途半端なレートを採用しているのは、交換する際に、自然と計算の訓練になるからです。

 一方Clubはいわゆる課外活動になります。Dance clubやBall game club、Art clubがあるのですが、これらもすべて子どもたちが自主的に企画し、理事長にプレゼンテーションし承認をえたうえで、メンバーを集め、立ちあげたものです。

 子どもたちが自分たちで運営する学校と先に紹介しましたが、想像以上の印象をもった方も多いのではないでしょうか。開校から八年、このような形に至るまでは紆余曲折いろいろとありましたが、子どもたちのコミュニティ形成力、運営力を信じきることで今のカタチに辿りついており、これからも、日々深化していくことでしょう。

 素和美小学校の朝は、全校生徒が集う全体ミーティングからスタートします。この全体ミーティングでその日一日のスケジュールを子どもたち自身で決めていくのです。いわゆる、決まった時間割というものは存在しません。そこにあるのは、学校運営に関わるアクションと子どもたちの知的好奇心からうまれたプロジェクトだけです。
 勿論、入学したての一年生の子どもたちにあるのは成熟した知的好奇心ではなく、純粋な好奇心だけです。すべてが「遊び」でしかない状態です。しかし、それはとても自然なこと、当たり前なことなのです。素和美小学校は、この「遊び」を大切に見守り、知的好奇心に変わっていく環境を死守しようとしています。
 この学校の先生の唯一の役割は、子どもたちの「自由」を守ることなのです。
 この純粋な好奇心を大切にしようとする意識や試みは全国至るところでみられるようになってきていますが、それでもまだ多くの小学校が採用する「制度」は、子どもたちを教室という箱に押し入れ、並べ、「教育」を施し、均一化させているようにみえます。

 低学年の子どもたちは、思う存分遊びつくしながら高学年の子どもたちとの共同作業を繰り返していきます。三年生になるころに共同作業はいつしか協働作業へと変わり、多くの子どもたちに知的好奇心が芽生えはじめます。更に協働作業を進めていく過程で、子どもたちは色々なことを自らの意志で学んでいきます。そして高学年になると、低学年の子どもたちに教えることを通して、更に自らの学びを深めていくようになります。大人でもなかなかできない「教える」ということを当たり前にこなしていくのです。このような全学年、全生徒が参画した学びの「循環」が素和美小学校の根底にあるのです。

 素和美小学校は富士北麓の豊かな森のなかにあるので、学びの素材はフィールドのいたるところに転がっています。大きな実験室のなかにいるようなものです。一般的な教科書を「使う」ことはありません。日常のなかで自ら学んだことと照らし合わせるひとつのツールとして存在するだけです。九九や漢字ですら「教育」される(他律的に教えられる)ことはありません。

 では、どうしているか。

 畑で野菜をつくったり、生き物を育てたりするなど、多種多様なプロジェクトが行なわれているのですが、そのなかで記録をつけたり興味をもったことを調べたりするなかで計算や漢字が「手段」として使われ、結果として、学んでいけるようにしてあるのです。

 子どもたちは、他律的に「教育」されているのではなく、自律的に「学んでいく」のです。

 まだ発展途上で充分に行き届かない部分も多々ありますが、少なくとも自律的な学び(自ら学ぶ)が起こる環境/場所づくりを素和美小学校は目指しているのです。すべてが他律ではなく自律的なことですから、どの子どもたちに聞いても「学校は愉しい!」との答えが返ってきます。この子どもたちの答えが素和美小学校の特徴を端的に表しているように思えます。

 高学年になると、それぞれのもつ個性によってプロジェクトは深化していきます。自然や生き物への興味から生命そのものへの関心に繋がり、あるこどもは人類の進化、別のこどもは宇宙の成り立ちをテーマにするなど、その枠はどんどん拡がっていきます。
 この自主的な学びの過程ではマインドマップなどが自然なカタチで使われます。プロジェクトで得られる知識は、ゼロの概念や宇宙の起源、自由論など、大人でも知らないもので溢れています。しかし当の子どもたちはそんなことまったくお構いなしです。子どもたちにとっては、ただ純粋に自分たちの興味関心のあることを追求しているだけで、決して「勉強」ではなく、「遊び」だからです。素和美小学校の子どもたちには、「学び」と「遊び」の違いはないのです。だから素和美小学校での「学び」は愉しく、面白いものでしかないのです。

 わたしが素和美小学校の子どもたちから希望に満ち溢れた未来を感じるのは、特に多学年によるプロジェクトの組成のあり方やその運営を目の当たりにするときです。子どもたちは、仲間(全校生徒全員)のことをよく知っています。毎日混ざりあって、共同、協働作業をしているので当然です。では、子どもたちは仲間の何を知っているのでしょうか?

 それは、それぞれがもつ個性です。

 素和美小学校には、テストがないので、成績がよい、悪い、といったような概念は存在しません。従って、そのような薄っぺらな評価基準だけでお互いをみることはありません。子どもたちがみているのは、それぞれの個性がどのようなものなのか、だけなのです。何に興味があるか、何が得意で何が不得意か、どのような考え方をするか……。それぞれの本質部分をお互いに実によく把握しています。それを把握したうえで、子どもたちはプロジェクトを組成しているのです。このプロジェクトであれば、誰がリーダーに適任で、フォロワーは誰がよいかなど、みんなで話しあって決めていきます。

 そこに年齢や性別の基準はありません。
 判断基準は個性、それだけです。
 ヒエラルキーはなく、リーダーが偉いといったような考えも一切ありません。
 そこには、それぞれの「役割」があるだけです。

 校内には「リーダーとボスは違う~ボスにはなるな、リーダーになれ」「自由にはルールがある」「One for All, All for One」などの標語が様々なところに掲げられています。プロジェクトがうまくいかなかったときに子どもたちが話しあって導きだしたものです。
 勿論、すべてのことを子どもたちが自律的に運営しているので、うまくいかないことも多いですし、子どもたち同士で衝突することもあります。しかし、それでも先生が介入することはほとんどありません。先生が介入しないことを知っている(それが当たり前だと思っている)。子どもたちはカオスな状況のなかで、七転八倒しながらもなんとか自律的に課題を解決していくのです。

 わたしが、日々感じている、希望に満ち溢れる「未来」、そのひとつがここまでご紹介した素和美小学校の子どもたちです。目の前のことを曇りなき眼で観察し、素直な疑問を持ち、衒いなく質問しながら、経験と知識を積み重ねていく子どもたち。既成概念もなく、遊び方から学び方まであらゆることを自分たちで愉しみながら考え追求し、創造していく子どもたち。まさに希望に満ち溢れる「未来」そのものです。わたしが小学生に触れる機会は、素和美小学校しかありませんが、元来こどもはすべてこのような存在だと思っています。

 一方、「大人」はどうでしょうか。

 誰もが大なり小なり目の前のことから眼を背け、疑問をもたず、答えを探すことはできても質問ができなくなっていることが多いのではないでしょうか。
 すべてを子どもたちのように、という訳にはいきませんが、子どもたちに学ぶことはたくさんあります。少なくとも、社会によってインストールされたアンコンシャスバイアスなどで「大人」が無意識にこの希望に満ち溢れる未来を阻害するようなことをしてはならないと思うのです。

 ここまでで、素和美小学校に興味をもたれた方もいらっしゃるのではないかと思います。そうであれば、嬉しい限りです。しかし、わたしは素和美小学校を決して特別視しているわけではありません。世界でも、日本各地でも様々な新しい試みが行われています。より未来的、実験的、実践的な取り組みをしているところも多いですし、熱い志をもった「オトナ」が先導し、より成熟度が高いものを創りあげているところも多く見受けられます。そして素和美小学校にも課題はたくさんあります。しかしそれを前提にしたうえで、素和美小学校には、学びのあるべき姿の核の部分があるように思います。

 それは他律的な教育ではなく、自律的な学びを基盤にしている、ということです。そしてそこには理論があるだけではありません。お互いの存在を認め合い、共に活き活きしているという実体があるのです。

 しかし、このあるべき姿を阻害する大きな要因があります。
 いわゆる「大人」の存在です。この「大人」には、親や先生も当然含まれます。

 いくらアタマで素和美小学校のビジョンを理解していても、実際に我が子が高学年になっても九九が完璧にできなかったり、漢字がうまく書けなかったりしたら、どうでしょうか?心配になるのではないでしょうか。

 このままで、ちゃんと進学できるのだろうか?
 いい高校、いい大学にはいって、ちゃんとした企業に就職できるのだろうか?

 この「ちゃんと」とは何なんでしょうか? 何を担保してくれるものなのでしょうか?

 「二〇一一年度にアメリカの小学校に入学した子どもたちの六五%は、大学卒業時に今は存在していない職業に就くだろう。」

 これは、アメリカ合衆国デューク大学の研究者、キャシー・デビッドソンが、二〇一一年八月のニューヨークタイムズ紙のインタビューで語った言葉です。二〇一一年に小学校に入学した子どもたちは、二〇二一年、既に高校生になっています。当時は刺激的な言葉だったかもしれませんが、二〇二〇年代にいる今のわたし達はこれを現実的なことだと理解できると思います。少なくともアタマでは。

 子どもたちはまったく問題ありません。
 わたしたち大人とまったく違う時代を生きているからです。

 子どもたちは自然に「大人」には想像できない職業に就いていくでしょう。適切な武器をその時々に手に入れながら。子どもたちの適応力はとてもしっかりしたものです。心配ありません。
 しかし、それにはひとつ条件があります。その適応を「大人」が邪魔しないことです。勿論、意図的に邪魔する「大人」はいないはずです。しかし無意識に邪魔をすることはあるかもしれません。この無意識は、これまで生きてきた社会からインストールされたバイアスによって引き起こされるものです。様々な価値観が大きく変容している今だからこそ、このバイアスが何かしら邪魔をする可能性があるのです。

 元来、経済は環境や文化と非分離なものでした。しかし、近代は商品〈社会〉経済とそれを支える社会制度に占有されてしまいました。そしてその社会は、従順な「賃労働者」を求めたのです。それに呼応し、教育は、学ぶという本来の自律行為から外れ、他律的なサービスとなり、従順な「賃労働者」を効率的に輩出する機関となったのです。
 いい悪いではなく、そのようにさせる社会構造だったのです。その社会構造のもと、「教育」をされ育ってきたのが、今のわたし達「大人」です。

 その価値観がバイアスとして「大人」には深く染みついているのです。従って、アタマで分かっていても、余計な心配(進学や就職等々)をしてしまいがちなのです。それでもその心配を心の内に留めておくことができればよいのですが、無意識に表出させてしまう場合が少なくありません。

 何事にもバイアスがかかっていること、自分がみている世界は目の前にいる人がみている世界とまったく違うことをまずは認識することが大切です。親子であれ、夫婦であってもです。ましてや、同僚や上司、部下は当然です。バイアスはとても強力であり、少なくともその存在を認識しないと見当違いなアクションに繋がってしまうということを充分に理解しなければなりません。
 これからの時代に(正しくは、今までもこれからも、ですが)必要なのは、自ら考え、学び、課題設定し、仲間と協力しその課題を解決していくことができるチカラです。このチカラを子どもたちは元来もっています。それを破壊しないように、守るのが「オトナ」が唯一できる役割なのです。「オトナ」は自分のもっているバイアスを認識し、子どもたちに学ぶ姿勢を明確にもつべきではないでしょうか。

 わたしは、これまで多様な企業で経営や事業創造に携わってきましたが、それらの現場で感じてきたのは、企業に参画している人たちの個性を活かしきっている組織が少ないということです。それぞれのもつ個性をお互いにしっかりと観て、プロジェクトを柔軟に組成し、それぞれがもつチカラを存分に発揮し愉しみながら仕事をする、これができれば未来は変わるはずです。しかし、それを実体化させている企業はまだ少ないと思います。ホラクラシー型組織やティール組織などがこれからのあるべき組織形態として取り上げられることが多いですが、素和美小学校にはその形態しかありません。また、生きることと働くことの関係性が変わりつつあるとよく聞きますが、素和美小学校では、学ぶことと遊ぶことがはじめから非分離な状態になっています。まだまだ未成熟ではありますが、組織のカタチとして、素晴らしいものにみえませんでしょうか? これまでわたしはビジネスの現場で多様な組織をみてきましたが、このような自律型の組織、生命体のような組織は、あまりみたことがありません。

 なぜ、子どもたちにはできて、大人にはできないのでしょうか?
 なぜ、素和美小学校ではこのような環境が創れて、多くの企業では創れないのでしょうか?
 
 その答えは、信じきることができるか否か、です。

 素和美小学校は、子どもたちを信じきっています。正確には、信じきろうという強固な意思をもとうとしています。

 多くの企業は、参画している人たちを信じきることができているでしょうか。実際はなかなか難しいのが実情ではないでしょうか。なぜ、信じきることができないのでしょうか。
 それは、組織やそのマネジメントのカタチをクリアにイメージすることができないからです。ホラクラシー型組織やティール組織をアタマでなんとなくはイメージできたとしても、そもそもそのような組織での実体験がなければ当然クリアにはイメージできません。それはとても自然なことです。クリアにイメージさえできれば、実体化を図れる可能性は高くなるはずです。

 本書の出発点はここにあります。生命体のような組織(コンビビアルな組織)がどのようなものか、そのような組織の創りかた、そしてそれをマネジメントする際に留意すべき点は何かを考えていきたいと思います。
 わたしは学者ではなく日々現場で格闘している一実践者でしかありません。本書は、わたしがこれまでリアルに体験してきたこと、七転八倒しながら一回性の現場で身体知化してきたことの稚拙な記録(ものがたりの一部)にすぎませんが、そこから少しでもそこに纏う非言語的、情緒的な空気感を感じ、組織創りの参考にして頂ければ幸いです。

 この章の最後に引用するのは、素和美小学校の創立者である庄司日出夫さんが十年以上前に記した「学びは、起こる」から抜粋したものです。

 庄司さんは二十年以上もの間フィンランド教育の幼稚園を運営しながら、素和美小学校の設立に向け邁進し、それをカタチにしてきました。認可をえるために文字通り走り回り、その目処が見えてくると自らブルドーザーに跨り、チェーンソーを片手に森を切り拓き、幼稚園の隣に木造の校舎を建ててきたのです。言葉にするとたったこれだけなのですが、途轍もないパワーであり、確固たる信念がないと成しえないことです。学びのあるべき姿、実現したい未来がクリアに見えていたからこそ、そして子どもたちの可能性を誰よりも信じていたからこそ、庄司さんは淡々と実行し続けることができたのだと思います。

「学びは、起こる」(庄司日出夫)より抜粋

 学びそのものは、学びの意識から発展的に起こった行動の成果なのです。目的を達成するために必要な知識をえるための行動が学びであると実感すると、子供たちは、知ることの喜びを感じるのでしょう。つまり、知識とはなんであるかを理解してくるのです。知識は、真実であり、定理であり、真理でなければなりません。思い込みとか、予想とか、仮定は、本当の知識とはいえないのでしょう。しかし、反面、子供にとっては、概念と同様に観念も非常に重要なことであることは、間違いのないことです。それらの知識に目覚めた子供たちは、真実を求め、それに触れた時、感動し、知識を実感するのです。知識は、使ってこそ本当の知識といえます。教育とは、子供たちが何かを感じ、意識し、好奇心を抱き、課題や目的を見つけ、学び、知識とし、それを使うまで支援することをいうのであり、この一連のプロセスのなかに、教師が知識を教えるという過程は存在しないのです。そして、幼児教育とは、素朴な好奇心を知的な好奇心へ変換させ、学びの意識を高め、自ら学ぶことへの導きなのです。自ら学ぶことは、幼児期の脳を刺激することではなく、学び(知的好奇心)の楽しさへ目覚めさせることです。学びの環境がめまぐるしく変化している現代において、今こそ、「自ら学ぶ」ことについて真剣に考える時期であると考えるのです。

続く

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