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コンビビアルな科学技術~コンビビアルなマネジメント⑯

 東北大学名誉教授の矢野雅文はこれまでの「科学技術」が置き去りにしたものとして次の三つを挙げています。

  1. ヒトとヒトのインタラクション(共有されるコンテクスト)
  2. 感情や動機づけ(意図と目的の共有)
  3.真・善・美(判断する基準:倫理、道徳、常識など)

 近代の科学技術の発展の大きな方向は、効率を高める、不快をなくす、でした。この方向の根っこには「人間には任せられない」「人間は信用できない」「人間は効率が悪い」といったような「人間不信」があるのではないかとわたしは考えています。現代では、人間が道具として科学技術を自律的に使うのではなく、科学技術にわたし達が他律的に使われているのではないでしょうか。
 他律的に教育され、他律的にルールに従い、更に科学技術にも他律的に使われながら、日常を過ごしていることになっているのではないでしょうか。この流れの先に何があるのでしょうか。イリイチが否定した、《Weに属するIを失った、Iの集合化》ではないでしょうか。わたしはそれが豊かなものとは思えません。

 様々なものや環境がフリクションフリーとなり、わたし達の「不快」への耐性は著しく劣化しています。矢野が挙げた、ヒトとヒトのインタラクション(共有されるコンテクスト)、感情や動機づけ(意図と目的の共有)、真・善・美、これらをもとに科学技術を再構築しなければなりません。科学技術にも「転倒」が必要なのです。

 それを実現できるのはコンビビアリストです。コンビビアリストだからこそ、人間が自律的に使う道具を「創る」ことができるのです。それは「違和感」を覚えることができるからです。個々人が自らの姿勢をイノベーション(内側としての自分自身を変える)し、真・善・美を再構築したうえで、意図と目的を共有し、そのコンテクストの共有が図れるような人と人の関係性を築き、科学技術を自律的に使い、協働する。その先によりよい未来は自ずと出現してくるのです。

続く

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