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【小説 喫茶店シリーズ】 Ⅰ. 純喫茶「風車」 (vol.7)

「え〜。今日は『概説』の時間ですが、だいぶ時間が押してますので駆け足で進めます。ま、この小説のキモは、心理描写ですが、筋をある程度わかった上で読み進めた方が、より深く没入できるのではないかと思います。それから、登場人物が多いので、多少端折ります。重要人物にだけ焦点を当てて、筋立てを中心に説明します。それでは、駆け足で」
と時間がないといいながら、前置き長く『罪と罰』第2回講義がスタートした。

響子さんは、向かいの席でまだ腕を組んだままだ。

まず、ラスコーリニコフの犯罪哲学について、「新しい世のために、自分は選ばれた非凡人であるから、強欲な高利貸しを殺し、得たお金を社会善のために使うことは許される。というふうな倒錯した選民意識で決行した」
と軽くすっ飛ばして、次に移ろうとしたところ、響子さんが手を挙げて発言した。
「はいっ。異議あり!」
「そんな自分勝手なエリート意識は、断固、受け入れられないっ!」
まるで、春闘か何かの最前列で座ってる人みたいにコワイ顔してる。

「え〜。発言は終わってからにして下さい。時間がないので進みます」
と僕は冷や汗たらたら。先が思いやられた。

次、初段の重要なところ、ソーニャが、家族の生活のために身を売りに出掛けるくだり、その時、響子さんの組まれていた両手が膝に落ち、そして、うなだれたかと思うと泣き出した。
僕は、突然のことに狼狽した。
いきなり泣き出すのは最初からだけど、今日のこの感情の起伏は度を超えている。と直感したからだ。
「どうしたんですか。響子さん」
黙って泣いている。

「これ、ちょっと飲んで下さい。まだ口つけてないから」と、授業料のクリームソーダを向かいに押し出しストローを差してあげた。

泣きながら響子さんは、ストローを口にくわえて一口飲んだ。
そして、一息つくと、
「おいしい」。「自分で作ったものだけど」と言った。
そこには、親に叱られ、うなだれながらも出されたものを素直に飲んでいるような、そんな可愛らしさもあった。

「よかった。でも、一体どうしたんですか、大丈夫ですか?」「今日は、もう止めましょう。最初からなんだか変だったし」
「いや、響子さんのこと言ってるんじゃない。僕の朝のことです。あんなに自分の体がどうにもならないなんてこと今までなかったから。今日は行くなって、暗示だったのかなぁ。あ、違います違います。いやホントに泣いたんですよ。それも大声上げて、後で母が『さっきは何事!』って言ってました。だったら助けに来ればいいじゃないか、ってことですけど、それにしても、あんなに泣いたの、多分、幼稚園の頃かな」
などと、何とか気を紛らそうとしどろもどろしていると、響子さんが静かに落ち着いた口調で言った。
「いいのよ。ごめんね気を使わせて。変なのは、私の方よ」

「おととい、病院に行ったの。産婦人科よ」
「出来てるって」「三ヶ月だって」
そして、また泣き出した。
「お姉ちゃんにも叔母にもまだ言ってない」
「君が最初よ」

・・・僕は、
何だか頭が真っ白で、どうしたらいいのか、何と言えばいいのかわからない。
世界文学大全は粗方読んだけど、今はどれも役に立たない。それらは本の中の、他人ごとだから、目の前で泣いている響子さんへ掛ける言葉は、今その目の前にいる僕自身の言葉でなければならない。そんな気がする。

でも、言葉は何も出てこなかった。
頭でっかちな僕には、目の前にいる人に掛ける言葉を持たない。そんな自分を恥ずかしく、とても惨めに思えた。
僕の中には、本当に必要な、知識ではなく心から出てくる言葉が、無いのだ。
例えば、映画で感動したセリフなら何個かは言える。でも、そんなんじゃダメなんだ。そんな気の利いたようなセリフを言う自分は許せない。

今、この場にいる僕の中から出てくる、僕の言葉でなければならない。

 しかし、言葉は、一言も出てこない。
ただ呆然と、うな垂れ泣いている響子さんを見ているだけだった。

 今日も高窓から光が射し込み、響子さんを背後からやさしく包み込んでいる。
そのニンバスのようなレモン色の光の中に浮かぶ響子さんは、鳥肌立つくらい神々しくて、いつか美術の授業でみとれた『受胎告知』の古い絵画のようだ。

(つづく)

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