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第3回THE NEW COOL NOTER賞始まる世界部門~10/25講評

第3回THE NEW COOL NOTER賞「始まる世界」部門へご参加いただいている皆様。

11月部門、ただいま募集しております。
自己紹介や、自己PR、よいと思うものの宣伝などが対象です。
たとえば、ご自身の「自己紹介」の記事を、そのままハッシュタグをつけてご参加いただくということも可能です。
皆さんの様々な背景、個性、これだけはゆずれないというもの、感じること、そういったことに触れたく思います。

どうぞ、ふるってご応募ください!

それでは、本日も3つの応募記事へ、審査委員それぞれからの気合のこもった講評を掲載させていただきます。

ぜひ、楽しんでいってください。

(本日の講評者)

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<講評(みこザウルス)>

まず#114に驚きました。
同じテーマで連作記事というのはnote記事作りの定番ですが、114も続いているというのは珍しいなと思いました。

最初はこのような記事だったそうです。

子どもが不登校になり
悲しくて苦しくてどうしようもなくて。
いったい何をしたら この真っ暗なトンネルから抜け出せるのか
探し求めてきた自分の経験が

おなじような苦しさを経験をしている だれかの心に届いて 
すこしでもふわっと軽くなったらいいな というところからの
スタートでした。

書くことで、珈琲タイムさんは自分と同じ苦しさを味わっている誰かの役に立ちたい、と思いました。
そして徐々にコメント欄や記事の内容を通じて交流も深まりました。

順調にnote生活を楽しんでいるように見えますが、本音としては珈琲タイムさんはあることをしきりに探し求めていました。

わたしは、「自分軸」を求めました。 
いや、求めるというよりも 渇望していました。

そのためにしたことは、最初は自分の外側にヒントとなるものを探していくことだったようです。

そうして毎日
本を読んだり 誰かと話をしたり
わたしの軸をしっかりさせるために何をインプットしたらいいのか
アンテナを立てて。

ところがある時期からそこに変化が訪れます。外側に目を向けるより先に、もっと大切なものがあるのだと気がついたそうです。

軸がぶれる自分さえ
いとおしいと思える自分が ここにいる。

114の連作をすべて拝見しているわけではないので、みこちゃんはそれがどのあたりなのかすぐには分かりませんが、その変化にとても興味があります。

珈琲タイムさんが作品の中でおっしゃるように、ほとんどの人は大切なものを外側に探し続けます。
そして、探すのをやめて家に帰ってきたときに、青い鳥が実は旅の出発点の家にいたということに気がつく。「メーテルリンクの青い鳥」ですね。

珈琲タイムさんは、noteでのや作品の中で言及されている「NVC(思いやりコミュニケーション)」のセミナーなどを通じて、実は青い鳥は自分の中にある。支えてもらうものを探すことによって自分の軸を安定させるのではなくて、自分の軸そのものの存在を発見し、それを信じることによって自分軸を確立しつつあるのだということでしょう。

珈琲タイムさんは、最後にこう言い切ります。

noteをはじめて八か月。
あたらしい世界のはじまりの鼓動を 

今、感じています。

必死に探し求めて、どこかで手に入れ軸ではなく、他ならぬ自分自身の中にそれを発見した。
だからこそ、この最後の珈琲タイムさんの言葉は、静かで確かな自信にあふれています。

うらやましいな、と思いました。
素敵な記事をご応募いただき、ありがとうございました。

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<講評(Norikoさん)>

読み終えてから暫く私は何も言葉が
思い浮かんでは来ませんでした.
ぽっかりとただ心が在ると言うだけで
何も浮かんでこなかったのです。

それからじわじわと怒りが
胸の奥で湧いてくるのを感じました.

『ここまで人は冷たくなれるのか』と
私は憤りと超えて
叫びたい気持ちでした。
不安や痛みを抱えた恵さんや
ご家族に対して
容赦ない言葉のナイフが向かってくる。

傷付いた身体をさらに斬りつけるように
心を抉っていくかのように
尖った言葉は降り注がれるのです。
それは恐怖というより怒り。

しかも発しているのは
本来傷付いた人達をケアする側の人です。


偏頭痛と閃輝暗点(せんきあんてん)
について恵さんは書かれていますが
実は私も高校生の時に同じような経験をした事があります。

最初に起こる症状は、視界の異常だった。窓ガラスに雫がついたような景色。そのうちキラキラとギザギザに光だし、頭痛と吐き気、そして下痢。
1日臥せってやっと回復する。

恵さんが詳しく説明してくださっていますが
私は初め、眼精疲労から来ているのかと
思っていましたが
そのうち頭が割れるような頭痛を伴う様になり、恵さんと同じように検査を受けています。

注射が痛くないと答えたのは
恵さんの本心では無かったと想像しました。

クラス委員長として
頑張ってきた自分、けれど
そのキツさに心が追いつかず身体に不調となって現れた事。
お父さんが倒れた恵さんを学校に迎えに来て下さって病院に行かれたのですから
注射が痛くないと答えたのは
そんなお父さんを心配させたく無かった
恵さんの想いからかもしれません。

それを聞いて
『ずるなんだね』と
言う人は
例え病気を緩和出来たとしても
それは医療的観点からだけの事で
心的医療では全くの論外です。

私から言わせて貰えば
『その質問だけで勝手に判断するなんて
技師としての仕事を全うしてない、それって
ずるだよね』

この人には、ひとの痛みは一生わからないだろうと思った。


恵さんも同じ様に感じられています。

私が更に言葉をなくしたのは
恵さんのお子さんが生後直ぐ
とびひに罹られ
その後、ブドウ球菌性熱傷様皮膚症候群、
ブドウ球菌による、毒性の全身火傷に罹られた時の医師の言葉です。

この人は、本当に医師や看護師なのだろうかと疑いすらしました。
人を診る技術や知識の前に
心があるのだろうかとさえ
疑いました。
『母親失格』
『甘ったれんじゃない』
その言葉の酷い事。


恵さんもご主人も涙が止まらないまま
辛い治療を終えられた事でしょう。
そして2度とこの病院とは関わり合いを持たれてはいないでしょう。


恵さん、私は恵さんより
全く人間というものが
出来上がっていないのです。
だからこんな時に黙ってはいられない。

『どんな親だって、子どもの些細な変化や体調を毎日毎日見ているんだ。
それでも子どもは元気だったり、うまく言葉で伝えられなくって、こちらも専門的な知識が無いから、少し様子を見ようかなって時がたくさんある。
それを放っておいただと!
放っておく事なんてするわけが無い。
毎日の様に見ていたから、詳しく時系列で症状を説明出来たじゃないか!
母親失格だなんて、第三者のよそ者に
たった数時間しか関わっていない人に
母親として365日24時間見てきた人の何が分かると言うのか!
母親失格と言う貴方は、間違い無く医者として失格でしょうし、人としても残念だと言うしかありません。
痛いから泣くし、だから母親を求めるのは子どもだけではないはず。
大人になっても痛い時には親を思う時があるんだ!
それをあまったれるなですって!!
話しかけるより先に、もう一回看護とは何か、から学び直してきたらいい』


私は思い切り
湧いてくる怒りの感情のまま
言葉を吐き出しぶつけました。


どろりとした塊を見て
それでやっと私は
ぽっかりと何も浮かばなかったのが
怒りと言う塊のせいで
思い浮かばなかったのではなく
見えなかったのだと気がつきました。

嫌だと思うことを、少しだけど置き換えることが出来るようになった。
人間は、喜怒哀楽がある。
怒っても、泣いてもストレス。
笑ってもストレス。
ならば、笑っていたいと思う。
悩むと、頬杖ついたり頭を抱えて、どんどん下を向いていく。
下を見たらキリがない。
上を見てもキリがない。


そう書かれている恵さんの根底にあるのは
自分が嫌だと思うことは、しちゃいけない!
ご両親から言われてきた言葉です。


尖った言葉に対して
同じ様にナイフを振りかざす事なく
笑っていたいと書かれている恵さん。

立ち止まって
思い切り深呼吸をする。
新しい空気を自分の中に満たす。

背伸びをすることもなく
無理をすることもなく
前を向いて
自分と言う確固たるものを持って
進まれる恵さんが
私はとても尊いと思いました。

感情のままに怒りの塊で
私は何も見えなくなっていて
完全に私という個人を無くしていました。

『言葉』
時に人を勇気づけ、前に進めるように
背中を押してくれるものです。
時にそれは人を傷付け、深い記憶の痕を残すものでもあります。
それをご経験された恵さんは
きっとこれからもひとに優しい言葉を
掛けられるでしょう。

素敵な作品のご応募を
ありがとうございました。

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<講評(一奥)>

時に、優しい言葉や癒やしの言葉だけでは、どうにもならないほどの激情、縛られる我が身を掻き抱いて叫びたくなることがあると思います。
しかし現実で、大声で叫ぶことができるわけでもなく、しかししかし黙ったままでいることもできず。

そんなstruggleな状態で、それでも、絞り出すように、何かに抵抗するように――世間か、あるいは自分自身を解放しつつ、しかし暴発はさせない、そのギリギリのところを絞り出す、そんな、

くっそ

という言葉に万感がある。
自身のなにか辛いことを、誰かにわかってもらおうと訴えているだとか、同情を求めているのではない。
明確に、何があったかを、ダラダラと語るようなものでもないし、そういうことを美徳とするわけでも硬派を気取るわけでもない。

しかしそこに確かに、世界の扉がある。
その姿を衒おうとするのではなく、しかし、有様を慇懃に隠そうとするのでもない、その在り方と向き合うこと。
そこに実は、世界から隔絶されまいと、己を世界の一部とした上でその世界からの隔絶に巻き込まれまいと、抗う様が見える。

「くっそ」

に込められた万感。
そこにもまた、世界が始まる大切な何かがある。

壱貫さん、このたびは多くを受け止めさせてくれる、詩作でのご参加、まことにありがとうございました。

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*講評は分担制としているため、必ずしも応募順に講評結果が発表されるわけではございません。よろしくお願いいたします。

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応募作品はこちらのマガジンに収録されます。
 他の参加者様の作品もお読みいただき、ぜひ、当コンテストを通して新しく知り合い、また仲良くなった、との声をお聞かせください! 皆様の縁がつながるコンテストでありたく思います。

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