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『生きる』 映画を視た

🐇 ミュの潤色
🐇 物語のエッセンス
🐇 写真の件(くだり)

『生きる』黒澤明監督の映画を視たよ。
だいぶ昔に一度視たことある筈だけどあまり思い出せないので改めて。

うわぁそっか…ミュは結構潤色してるね。
写真の件は映画には無いんだ😳

幼い光男とのブランコの思い出もミュの書き加えなのね。
ただこれに関しては、映画はお母さんのお葬式や光男少年の野球の試合とか出征(そうか時代的にそうだよなとドキリ)の回想シーンがあるから、勘治が男手ひとつで懸命に、愛情を注ぎながら光男を育ててきたことは見て取れる。「光男…光男…」ってずっと言ってるんだよ。
現在の光男に、父へ寄せる思いがあることはそんなにクローズアップはされないけど、あのミュを観た後だから分からないではない。

あとやっぱり「生きることはそれだけで美しい」みたいな台詞は昭和27年の映画には出てこないよねぇ。映画の勘治はホント言葉では何にも言わない。歌わないし😅

映画の描写だと、勘治が役所内で奔走して公園建設計画を進めたことが分かる。
その前に遊興地にする計画があったからこそ元々埋め立てされることにはなってたとか、助役がおそらく途中からこれを市長選に利用しようと思ったことが事の推進に役立った(ミュでは「市長選が控えてるから公園建設なんて余計なことはやめとこう」と言われてたけどね)とか、勘治の力を超えた「偶然」の要素もあったけれども、ミュのように「助役の一声で役所の各部署が渋々動き出した」ということではなかった。

後半はずっとお通夜の席に集まった役所の面々による回想で勘治の奮闘ぶりが語られ、みんな心打たれて意気上がったと思いきや…
翌朝からも相変わらずのお役所仕事で、若手部下の木村ひとり虚しく立ち尽くす。でも眼下の公園では子供たちが元気に遊ぶ光景が…というラスト。官僚主義批判の色合いが強いのね。木村はいつか改革の旗手になったりするのかなぁ。それともやっぱり書類の山に埋れながらいつしか毒されていってしまうのかなぁ。

うーん…
映画では前半のみに登場する小説家やとよをラストまで関わらせたり、特に小説家を狂言回しにしたのはミュとしてグッジョブだなと思う。
光男が父を思う気持ちも描いてラストも光男で、っていうのもアリよ。
でも…映画と同じように「勘治の尽力で公園が出来た」と描きたかったのだとしたら、写真の件は蛇足じゃないか?
ミュだけ観て受け取れるストーリーは「勘治は有効なことは何も出来なかったけど勘治に心動かされた小説家の暗躍により助役の一声で役所が動き出した」になっちゃうよなぁ。

ただ私は「え?勘治は何もしてないじゃん」という複雑な後味に惹かれたよね。勘治は全然ヒロイックではなくて、世の中の仕組みは所詮ああいうふうで、という点がちゃんと描かれてるとこが好感ポイントだった。実はそこは映画のやるせないラストと共通しているんだよな。ミュでは翌朝の役所は描かれてないけど。

エンタメに包んで伝えたいこの物語のエッセンスは何?と考えると、「世の中って簡単じゃないけどそれに呑み込まれないことを…ほんの小さなことだけど」ってことか。
お伽話みたいに夢や希望なんてのは叶っていくものじゃないし、人の心を動かし変えることなんてそうそう出来はしない。大人が鑑賞する作品ならそこをシビアに描くことを私は求めるよ。
あまりに大きな社会・世界の中で意味を成すのかどうかさえ分からないような小さい事を「希望」と呼んで掲げたり大切にすること。
ちっせぇよなぁ…でも最初の蝶の羽ばたきを諦めてはいけない、と。
足掻け、と。
そういうことか。

「気が遠くなりそうなくらいどうしようもない世の中」を言うために、うん、写真の件は効いてるのかもしれないな。


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