(前回のあらすじ)
1943(昭和18)年、岡村龍雄は劇団青春座の中心となって活躍する一方、あきれたぼういず改め新興快速舞隊は解散し、ボーイズの時代に終止符が打たれた。
※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!
▶︎今回からは数回に分けて、終戦までの各メンバーの活動をみていきたい。
【川田の退院】
1943(昭和18)年7月、無事退院した川田。
「それでも七ヶ所も切開手術をしたので、ちょっと僕の腰部は公開が許されません」(川田義雄/『日本演劇』1945年6・7月合併号)という過酷な治療と入院生活も一応は終了し、すぐに舞台へ復帰というわけにはいかないが、やはり岡村や益田の舞台を観に出かけている。
「ご苦労様です」と言われて恐縮……というくだりは、傷痍軍人に間違われてのことだろう。
9月8日には、久々にラジオ放送。
まだ脚が不自由だが、ラジオなら問題ないわけだ。
これを聴いた人が都新聞に質問を送っている。
芸人が表舞台に出ない時期が続けば、忘れ去られるのが常だが、こうして度々近況記事が出たり、復帰を待つ声があったりするというのは彼の人気の揺るぎなさの表れだろうか。
そしてラジオに続き、映画出演、そして舞台復帰を伝える記事が出る。
しかし、ここにある11月の浅草花月劇場への復帰は実現せず、本格的な舞台復帰は12月まで待つこととなる。
【岡村の出征・川田の復帰】
一方、青春座で活躍を続けていた岡村だが、11月、彼に召集令状が届く。
同じく青春座の山口も召集され、一座も解散することに。
岡村は、出征から一年足らずの翌1944(昭和19)年7月、グアムで戦死している。
彼が召集されなければ、あるいは生きて帰還していたら、さらに飛躍的な活躍をしてくれたのではないかと悔やまれてならない。
一方川田は、ようやく舞台へ復帰。
12月5日から、大阪千日前常盤座のカワベキミオ一座公演に特別出演する。
師であるカワベとの共演は「ジャズ・オブ・トーキョー」以来ではないだろうか。(※「ジャズ・オブ・トーキョーについては▶︎(3)を!)
岡村の出征と入れ違いなのが悔しい。
続いて東京に帰り、銀座前線座の年明け1944(昭和19)年元旦公演に出演する予定だったが、大阪公演の疲労のため1公演見送り、11日から出演。
完全に本調子というわけではなさそうだ。
しかし、2年も舞台を離れていた川田の舞台へかける情熱は熱く、3月1日からは「川田義雄一座」を旗上げ、ホームグラウンドである浅草花月劇場に舞い戻って精力的に活動していく。
年が明けて1945(昭和20)年。
川田は変わらず浅草花月劇場で奮闘している。
このころの日々の様子を、川田が雑誌で綴っている。
不自由さののこる右足で毎朝浅草へ出かけ、夜も空襲警報に起こされ、休まらない毎日である。
よく通る声が夜の空襲警報下でも活躍、昼の公演と合わせて表題の「興行昼夜六回」というわけだ。
また、劇団の苦労も赤裸々に訴えている。
一座からはどんどん戦地や軍需工場へ人員が奪われてゆき、物資の不足で舞台化粧や衣装もままならない状況だ。
ようやく舞台へ出られるようにはなったものの、戦況は悪化し生活も舞台もますます苦しくなり、苦労が絶えない。
【参考文献】
『川田晴久読本』池内紀ほか/中央公論新社/2003
『日本演劇』1945年6・7月合併号
CD『楽しき南洋』リーフレット/オフノート・華宙舎/2010
「東京新聞」/東京新聞社
「大阪毎日新聞」/大阪毎日新聞社
(次回)益田・坊屋・山茶花の終戦まで