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「人は成長すべきでしょうか?」ーフィロソフィカル・シンキングで回答する

「人は成長すべきでしょうか?」という問いに対して、フィロソフィカルシンキングで回答してみたいと思います。フィロソフィカルシンキングは、物事を多面的に見るための思考法で、4つの立場から回答します。

正の回答:この問いは正しい。
反の回答:この問いは間違っている。
否の回答:正の回答も反の回答も正しいとは言えない。
合の回答:正、反の回答を総合すると~だと言える。

という感じの回答になります。概要はこちらの図で示します。

人は成長すべきでしょうか?の回答図

正の回答:正しい、なぜなら


人は成長すべきです。そうしないと、自分で自律して生きていくことが難しくなるからです。

人は誰でも、生を受けて死ぬまでの間、自分の社会生活を快適な形で維持し、できるだけ幸福になることを願うものです。その願いをかなえるためには、人格面の成長や能力の開発が必要なことは言うまでもありません。

特に現代の日本社会では自己成長は幸せのために不可欠だとさえ言えると思います。社会の仕組みは高度化し、そのために子供たちは長期間の教育を経て行かないと一人の人間として社会に適応することが困難な時代なのです。技術進歩もすごいスピードで進んでいます。不断の学習を進め、自己成長に勤しんでいくこと、これは人間が幸福になる条件ではないでしょうか。

それに、成長することは生きていくための必要条件ということだけではありません。成長することはその人にとっての自信や喜びにつながります。子供の時に初めて自転車に乗れた時、あるいは鉄棒の逆上がりができた時、とてもうれしかった思い出がある人もいるでしょう。成長は人間にとって喜びでもあるのです。成長実感を得ることは人にとって幸福感を高める要素になる。だから、生きている限り、人は成長すべきなのです。

反の回答:間違っている、なぜなら


「正の回答」は間違っている。

「正」は、高度化した現代社会で人間が幸せになるためには成長が不可欠だという。何とも現実追認的で、本質的、普遍的な回答ではないと思う。

幸せになるためには成長が不可欠だから人は成長すべき?その考え自体が人を不幸に追いやっていることに気づいていないのか?

現代社会では確かにいまや、誰もが豊かさや安定、場合によっては過度な欲望を充足させるために成長を追い求めている。そして多くの人間が、強迫的に「成長」というストーリーに駆り立てられ、「自己成長」の名の下にブラック企業でサービス残業に使役されているのが実態ではないか。現代社会において成長とは「やりがい搾取」する側が使う常套句に成り下がっている。

成長を追い求める現代社会の構造自体が深い病に陥っている。そのような病を現実追認して「成長すべき」という「正の回答」は欺瞞に満ちている。

成長すべきという言葉自体が人間を不幸にしている。現代は生きること自体がサバイバルゲームになっている。異常事態だ。「成長すべき」という言説はそのゲームに拍車をかけるもの。皆が成長しない方が全体が幸せになると思う。

否の回答:正の回答も反の回答も正しいとは言えない。

正・反の意見どちらも正しいとは言えないだろう。両意見ともその回答の前提に瑕疵があるのだ。

正・反の意見はどちらも成長を「不幸を避け、幸福を得るために不可欠な要因」として、その前提で成長すべきか否かを主張している。

でも、成長すれば人は幸福になれるのか?成長しなければ人は不幸になるのか?成長と幸福度の相関性は本当に強固なものだろうか?それは意見を主張する側の主観、すなわち感想・印象に過ぎないのではないか?

資産家に生まれるという幸運を享受すれば、遊んで暮らしていても安心感、充足感を得られる人生を謳歌できるかもしれない。逆に、いかに成長意欲に燃えていても、経済的に困窮している家に生まれ、様々な不運が降りかかってくれば到底幸せを感じることができない場合もあり得るし、そのような時には報われない努力に対して絶望すらするかもしれない。

幸福は人間の成長とは無関係に得られる場合も、はく奪される場合もある。正・反の意見はそれを考慮しきれていない無意味な回答に過ぎないのだ。

では私(否の回答者)はどう思うのか?「人は成長すべきか?」ということに対しては一切確たることは言えない。回答し得ないと言わざるを得ない。私は判断を留保したい。前提の吟味があまりに足りないし、吟味を尽くすには様々な問いに答えざるを得ないからだ。

私(否の回答者)は、正・反の回答者のように、そもそも無自覚に幸福を目的視したうえで成長の是非を語るスタンス自体に納得していない。誰が人間が生きる目的を「幸福」に定めるべきだと確証し得るのか?これさえも、疑ってしかるべき前提だろう。

合の回答:正、反の回答を総合すると~だと言える。


正の回答、反の回答、どちらも最もな部分があるので、総合した解を提示したい。

正の回答者が述べるように、我々が生きる社会では、その時々の時代の状況に合わせ、自分の生活を成り立たせ、環境に適応するためにいくばくかの成長・成熟を求められるのは常と言わざるを得ない。「すべき」かは別にして「せざるを得ない」宿命ではあるだろう。反の回答者はそれを現実追認的で本質を欠いた意見と批判するが、これは逃れようもない現実であるとも私(合の回答者)は思う。

ただし、反の回答者が主張するように「人は成長すべき」という価値観が無批判に称揚され、過熱するようになれば、社会は弱肉強食の様相を強くしていくこととなり、結果として人の生きづらさが増幅される。この考えも最もなことであり、その点で何の留保も条件設定もなく「人は成長すべき」と断定することも人の幸福、社会の安寧に資する考え方とは言えないのではないだろうか。

正の回答者、反の回答者それぞれにある良質な視点を踏まえ、私は「人は己の幸福増進に資する内容・範囲において是非とも成長すべき」という回答を出したい。この考え方に即して考えるなら「人は成長すべきか」どうかは、基本的には個人の側の意思として尊重されるべきだろう。社会や他者が外圧として課すべき代物ではないと思う。他者が外圧として「成長しろ!」と圧迫するのは、反の回答者が危惧する事態を惹起するかもしれない。原則として人は、自分自身の内発的動機によって、自分が幸せになりたいという意図に基づいて成長を目指すべきではないだろうか。それに、正の回答者が述べるように、成長は単なる生存戦略の道具ではない。人間には成長する喜びがある。成長を実感すること自体がその人の幸せに直結する場合もあるのである。

総評とまとめ

4つの立場から回答を試みましたが、特に否と合の回答は自分にとって説得力のある回答でした。否はややニヒルな見方で、既存の意見を解体する破壊衝動が見られますね。他方で合はポジティブで建設的なスタンスをとっているように思います。私の素の思考法は合に近いですね。

ちなみに私の「本音」はどうかというと、「どっちでもいいんじゃない?」という珍回答になりますw。はっきり言って、成長すべきかどうかという問いにそこまで真剣に関心が持てないんですよね。

フィロソフィカル・シンキングは誰もが哲学的思考をトレーニングできるように私が考案したものです。経営者や管理職向けの研修に大いに効果があると思っていまして、自分自身で試しながら磨きこんでいきたいと思います。皆さんも回答してみてください。きっと発見があると思います。

ちなみにこの質問をChat GPTにしてくださった方がいました。


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