ベルクソンの思想(の私の理解)
まったくニーズがないような気がするのですが、ベルクソンの思想について私が理解していることをメモで残しておきます。太字の用語はWikipediaなどで意味を検索していただければと思います。
とにかくベルクソンの思想は秀逸ですし、真理に迫っていると思いますね。
(ベルクソンの思想の私の理解概要)
我々人間は、”程度の差異”で占められた空間・時間を世界と認識し、その中にひしめく”現勢的多様体”を真と錯覚している。”現勢的多様体”の差異を吟味することで真なる世界に迫ろうとする間違いを犯している。
真なる世界はそうではないのだ。言葉や概念から離れて静かに内観してみよう。そこに”持続”という繊細な知覚があることを感じられるだろう。
世界は五感をリアルに味わうことができる360度のVRスクリーンで映像が映し出されるスクリーンとしての”イマージュ”であり、”イマージュ”において質的変化の継起として持続がリズミカルに更新(これが時間の本質である)されていくこと。これこそが世界なのだ。
全ての”現勢的多様体”は”イマージュ”(五感をリアルに味わうことができる360度のVRスクリーンで映像が映し出されるスクリーン)であり、”持続”を継起させる知覚である。多なるものとしての”現勢的多様体”は一なる”持続”にたたみこまれる。”純粋知覚”に過去が共時的にはりつく形で。世界は而二不二(ににふに)なのだ。
我々は、”持続”において知覚される質感を丁寧に感じて、そこから刹那に”潜在的多様体”から”本性の差異”を取り出し、新たな”現勢的多様体”を創造する機能が与えられている。それが”直観”であり、我々人間の創発の源泉だ。そこに回帰せよ。
”直観”とは、差異があるべきところに差異を見出す能力。我々はそこに回帰するからこそ、真に創造的であり、発展的でありえる。我々の生を開放する手段なのだ。
それはなぜか。”直観”の源泉は、生物一般に内在する”エラン・ヴィタール”(生の弾み)だからだ。”エラン・ヴィタール”は生命の進化を起こす内的衝動であり、その衝動は創造や自由の拡張を志向する。我々を生たらしめる法則としてのホメオスタシス。”持続”に近接し、”直観”を駆使するとは、この生命の原理に自己を委ねることであり、我々にとって最も自然で健やかなものなのである。
(補足)
”持続”という概念については、ユージン・ジェンドリンの言う”体験過程”と近いものとして私は捉えています。
”潜在的多様体”、及びそこから”本性の差異”を取り出すとは何か。これは井筒俊彦の「意識と本質」をお読みいただくとヒントが隠されているように思います。
”エラン・ヴィタール”とは、スピノザの言うコナトゥスと同じものと私は捉えています。
”純粋知覚”については垂水も理解があやふやです。
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