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”私”の解体 - 自由意志なき自由へ


解体された「あなたは~しなさい」というストーリー

コーチングは一般にクライアントの目標達成に焦点を合わせ、内省を手助けしながら気づきを促し、達成に向けた効果性の高い主体的行動を促進するための手段と位置付けられている。

いや、「位置づけられていた」というべきだろうか。上記のようなコーチング観が変容してきていることは多くの人が感じるところだろう。

今日において、コーチングが扱うテーマは「クライアントの目標達成」という枠に収まりきらなくなっている。「クライアントの目標達成」を逸脱した論点がより重要性を帯びているのだ。

現代は、いま我々が前提としている「目標・目的」自体が本当に適切なのか、いま前提としている目標は間違っているのではないか、目標・目的の改編自体が重要なのではないか、というより手前にある問いが大きくなってきているのだ。

一昔前であれば、我々個々人が生きる上での目的や目標を問う必要はあまりなかった。以前であれば多くの目標・目的は与えられるもの、ギブンなものであり、個々人はその目標・目的ないし役割にいかに適応するかを考えればよかった。

農家の長男に生まれれば、家を継ぐ。保守的な家庭・地域で女性として生まれたらしかるべき時期に結婚をして良妻賢母となる。学力に応じて学校に入り、学歴に応じて会社に就職し、働きに応じて内部昇格を目指す。人生のフローはある程度は社会の構造に規定されていたから、人間は比較的安定した社会のコミュニティ内で、定められた目標に対し主体的に行動すれば足りたのである(”足りた”と言いつつ、これは時に過酷な試練を伴うものだったが)。

一昔前は、社会の構造上、「あなたは~しなさい」・「私は~しなければならない」という言葉が我々が生きる上での規律として大きかったのだ。

「私は何がしたいのか」というストーリーの勃興

しかし近年になってその様相は大きく変わる。人間側の意識のありようと社会の構造が呼吸を合わせたように相互作用し、生き方を巡る我々の規範のあり方は様変わりした。

例えば企業社会では転職が一般化し、雇用の流動性が増し、大企業で終身雇用制度が終焉し、副業・フリーランスなど働き方の多様化が進んでいる。私たちを取り巻くコミュニティは安定から不安定に向かっている。そうなると、社会システムやコミュニティが我々に固定的な目的・目標を与えてくれなくなってきた。

「あなたは何がしたいのか?」・「自分はどう歩みたいのか」という言葉でもって、我々は生きる上での指針を自問自答しなくてはならなくなったのだ。

ゆえに現代のコーチングは目標達成の方法を探求するだけでなく、向かうべき目標・目的の探究に焦点を合わせることが必然的に多くなってきたのである。リクルート社では随分以前より「お前は何がしたいの?」という質問が日常的に成されていたと言われるが、過去にはこうした先進的な企業の取り組みだったものが、現代ではビジネスパーソンの領域においては常識的なパラダイムになっていると言っても過言ではないだろう。

福音としての「私は何がしたいのか」

ところで、「あなたは~しなさい」・「私は~しなければならない」という外部から規律への適応から、「あなたは何がしたいのか?」・「自分はどう歩みたいのか」という内的な目的の探究という構えに生き方の重心が移行していくことを、ポスト構造主義哲学は概ね福音として捉えていた。

例えばドゥルーズは人間をある同一性に還元する考え、社会の構造の中に位置づけてアイデンティティを付与する社会のあり方を”ツリー”と呼んで批判した。”ツリー”として我々が世界を認識することで、我々は自他を国籍、性別、年齢、財産、地位、血縁、学歴、肩書、などの共通の枠組みによって定義づけする。そこでは個人の唯一無二は個性は捨象されてしまう。こうした”ツリー”構造の価値観に根差して生きることは人間に閉塞感をもたらすから、ここから脱出する必要がある。という考え方を持っていた。

その意味では社会は、ゆっくりと時間をかけてドゥルーズが理想としている社会に近づいているのだと私は思う。「あなたは~しなさい」・「私は~しなければならない」という外部から規律は解体され始めているのだから。

ではドゥルーズは「あなたは何がしたいのか?」・「自分はどう歩みたいのか」という問いにどう応じれば良いと考えていたのだろうか。それはリゾームという考え方だ。リゾームとは根茎。茎でありながら一見根のように見えるものの総称。竹・シダなどに見られるものだ。相互に関係のない異質なものが、階層的な上下関係ではなく、横断的な横の関係で結びつくさまを表す概念である。

リゾーム的なアイデンティティを人間が持つとは、社会の側が押し付けてくる同一性への還元や概念規定を拒否・回避し、ただ周囲との差異を明確に認識しながらどのような枠組みにも還元されない生き方を志向することにつながる。ドゥルーズはそのような生き方を我々に提言した。

ある人が音楽家を志しながら、同時に料理も得意であり、さらには熱心なガーデナーでもあるとする。この人物は、一つのアイデンティティ(例えば、音楽家志望)に縛られることなく、様々な興味や活動を通じて自分自身を表現することが可能だ。社会が押し付ける「音楽家として一路邁進すべき」という一元的なアイデンティティから脱却し、料理やガーデニングなど、他の多くの側面を通じて自分自身の多様性を認識し、表現することができる。このようなあり方を自覚的に生きることがリゾーム的なアイデンティティを持つこと。

リゾーム的なアイデンティティを持つことは、社会が定める枠組みやアイデンティティの定義に拘束されず、自身の興味や活動を通じて、常に変化し続ける多様な自己を探求する生き方につながる。これにより、個人は自分自身をより豊かで多面的な存在として理解し、周囲との関係性の中で独自の場を形成していく可能性が高まる。ドゥルーズは、このような生き方を通じて、私たちがより自由で創造的な存在になることができると主張したのだ。

呪縛としての「私は何がしたいのか」

「私は何がしたいのか」を問うことができる社会とは何と豊かなものだろう。ドゥルーズはそう考えたに違いない。では現実はどうだろうか?常日頃から「私は何がしたいのか」を問う立場になった我々は、このような社会を理想として生きることはできているだろうか?

できている人もいるだろう。だが、それができていないと感じる人も多いに違いない。「私は何がしたいのか」を問う生き方は楽なことばかりではないのだから。

「私は何がしたいのか」という問いを中核にして生きることは確かに我々を自由にする。ただそれは「本当の自分とは何なのか」という掴みどころのない問いの迷宮に陥ってしまう可能性を内包する。それは人間の新たな苦悩の種になる。自己の本質やアイデンティティを自分自身で明確に定義することは案外難しいのだ。

ある人が、社会的期待や親の願いに従って、医者になる道を選ぶ。しかし、数年が経過し、彼は「自分は本当に医者になりたかったのか?」と自問する。この問いから彼の内面での探求が始まり、「自分の情熱は本当に医療にあるのか、それとも全く異なる分野にあるのか?」という問いに直面する。

この探求は彼の将来選択に対する自由をもたらし、自分自身の望みや情熱に基づいて生きる機会を提供する。しかし、同時に「本当の自分」とは何か、そして自分の情熱が実際に何であるかを突き止める過程は、不確実性、不安、そして自己疑念を引き起こす。

自分の真の望みや情熱を見つけ出す旅は、明確な答えがなく、終わりのない探求に思えてくる。この探求は価値があると確信させる一方で、自己のアイデンティティや目的に関する継続的な疑問や不安に直面することがしばしばだ。

自分の周囲の人間が、自分自身の個性を見出してイキイキと生きている。一方で自分は何か取り柄があるわけではないし、ごくごく平凡な人間だ。「本当の自分」は他者から抜きんでて才能を発揮して、エネルギッシュに生きて成功している人間だとしたら、自分はそのような人物からほど遠いではないか。そういう悩みに直面させられる人もいるだろう。いや、私を含めた大半の人間は実はそうではないだろうか。

「本当の自分」を生きることを我々は社会的な成功とパッケージで捉えてしまう。成功していない自分は十分個性的ではない。他者と比較して遅れをとっている。そうして我々の思考は「私は~しなければならない」というツリー構造へ逆戻りしてしまう。

「私は何がしたいのか」という問いを中核に生きることは、自由への道を開くと同時に、自己認識の難しさという新たな課題をもたらす。

では我々はどうすれば良いのか。以下は私の見解だ。

そもそも、「私は何がしたいのか」という問いに答えはない。
「私は何がしたいのか」と語る”私”を解体することで真実は見えてくる。

これが私の考えだ。

東洋思想的な”私”の解体と再定義

では私がなぜこのような主張をするのか、東洋思想的な観点で述べてみたい。例として世阿弥の「花」という概念を用いて、「私は何がしたいのか」という問いへの答えが存在しない理由を考える。

「花」とは、能楽の創始者である世阿弥が提唱した美の理念であり、形式や技術を超えた、捉えどころのない儚い美しさや芸術性を指す。これは、単なる形や形式に捉われず、その瞬間瞬間に生まれる生き生きとした美の表現を大切にする思想だ。

「私は何がしたいのか」という問いに対して、「花」の概念を適用すると、この問い自体が一つの形式や定義、それは例えば私で言えば”垂水隆幸という人格”にすら囚われることなく、その瞬間瞬間で感じる心の動きや内なる声に耳を傾けることの大切さを示唆する。美の表現は「私」という存在を解体し、その瞬間瞬間の感覚や感情、直感に基づいて行動することによってのみ見えてくるということだ。

例えば、能楽の舞台上で役者は厳格な形式と技法に従いながらも、その中で自らの解釈や感情を込めて瞬間の「花」を咲かせる。これは、役者が一つの役割に縛られることなく、その瞬間瞬間の内なる感覚や感情に基づいて表現を深めることを意味する。同様に、「私は何がしたいのか」と自問する際にも、予め定められた答えを見つけ出すのではなく、その時々の自分自身の感覚や直感に注意を払い、それに従って行動することが、自分なりの個性をより純粋に表現できる道であると解釈できる。

この考え方は、自己探求の過程で感覚と知覚の束としての”私”(垂水隆幸という人格ではない)という存在を静かに観察し、内面から湧き上がる感覚や欲求に基づいて自然に行動することの重要性を示唆する。それは、形式や既成概念に囚われず、瞬間瞬間の真実を追求することで、「花」を咲かせることに他ならない。

このように、「私は何がしたいのか」という問いに対する答えは、外部から与えられるものではなく、自分(例えば”垂水隆幸”という人格)を中心に人生の方向性を考えるということでもなく、感覚と知覚の束としての”私”の内面から自然に生まれるものであると言える。世阿弥の「花」の概念を通じて捉えるならばだ。そのような捉え方をしたときに、人生は自分という人格を超えた、瞬間の美しさや真実を追求する旅に変わる。

もう一つ例を挙げよう。浄土真宗における「如来蔵」の概念を参考にすることができる。「如来蔵」の概念は、一切衆生が本来仏性を持っているという教えに基づいている。この仏性は、すべての存在が悟りを開く可能性を内包しているという思想であり、仏性は外部から得るものではなく、すでに我々の内に存在していると説く。この観点から、「私は何がしたいのか」という問いに対する答えを探求するプロセスを考えると、「私は何がしたいのか」という答えを外に求めるのではなく、内面に目を向け、本来持っている仏性に気づく旅であるという設定が可能になる。

この考え方は”私”という存在の解体、すなわち自我や固定観念からの解放を前提する。自己探求の過程というものが、浄土真宗の言うところの本来の自己、すなわち仏性に気づく過程であると整理できるのである。これは単なる宗教的信念であるのみならず、我々自身の生活で実感できることだろう。

たとえば、普段の日常生活の中で私たちは様々な役割や期待に追われ、「私はこれをしなければならない」とか、「社会は私にこれを期待している」といった外的な圧力に左右されがちだ。また、特にキャリアを考える時には「本当の自分が成し遂げたいことは何か」を考えることは珍しくない。だがそのような思考を離れて、ふと何かの拍子に腑に落ちることがある。「そうか、自分が願っていたことはこういうことだったのか!」心の中もモヤモヤが晴れるように自分の本音を知るという経験が誰しもあるだろう。私が提唱したいのは、これを仏性の実体と捉えてみるというアプローチだ。

如来蔵の視点から見れば、他者からの期待や自分の思考はすべて外側からの影響に過ぎず、真の自己や仏性とは無関係と捉える。真実(自分にとって腑に落ちる生き方)を見つけるためには、これらの外的な影響から一時的に距離を置き、内面に目を向け、自己の内にある静けさや平和、そして仏性へと心を落ち着ける必要があると考えるのだ。

この考え方は、まさに”私”(私で言えば垂水隆幸という人格)という概念を解体することに他ならない。それは脇に置いておく。その結果として初めて「”私”は何がしたいのか」という問いを超えた、より深い自己理解に到達することができる。敢えて言えば「”私”(感覚・知覚の束としての私)がこう在りたがっている」という問いに転換すると言えるだろう。

「私は何がしたいのか」という問いへの答えを求める旅は、外側の世界ではなく、自己の内側へと目を向け、本来の自己である仏性に気づくことによって、真実が見えてくる過程であると浄土真宗の如来蔵の概念を通して理解することができるだろう。これは、自我や執着を超えた、より深い自己理解と自己受容への道を示している。

以上、世阿弥と浄土真宗の思想を補助線にして”私”の解体と再定義について述べてきたが、皆さんはこの話を理解できるだろうか?さらには実感することができるだろうか?個々人に「花」があるのか、仏性というものが備わっているのか、私は確証があるわけではない。ただ実感として自己の内面にそのような動き、作用の所在は確認できる。それを道しるべに歩むと、確かに「私が在りたがっている方向感」が感じられる。私においては、だ。個々人の実感においてそれを確かめることができるかどうか、それは皆さんの検証次第だと言える。

西洋思想的な”私”の解体と再定義

少ししつこいとは思うが、”私”の解体と再定義は重要な論点なので、西洋哲学も参照しておこう。この手のテーマにはスピノザがうってつけだ。

スピノザは「エチカ」などの著作で、自然と神は同一であり(神即自然論)、すべてのものはこの一つの実体のモード(表現形態)であると論じた。この世界観の中では、個々の人間も宇宙の法則に従って存在し、自由意志の概念は幻想であるとされている。スピノザにとって、自由とは外部の原因によってではなく、内部の必然性(内側にある自分を駆動する衝動)に従って行動することを意味するのだ。

「私は何がしたいのか」という問いに対するスピノザ的なアプローチを考えるとき、この問い自体が自由意志の幻想に基づいていると捉えることができる。スピノザの哲学では、私たちの欲求、願望、そして行動はすべて自然法則に従っており、それらは内部の必然性から生じている。したがって、「私が何をしたいのか」と自問することは、”私”(私で言えば垂水隆幸という人格)に基づいて思考する事柄ではなく、自己の内部にある必然性を理解しようとする試みと捉えるべきであり、外部から与えられる答えや人格の見地から答えではなく、自己の本質と宇宙の法則との一致を見出そうとする探求なのである。

帰結としては世阿弥や浄土真宗と異なる点はあまりないように思われる。なお、同様の構造は、アリストテレス、孔子・老子、ベルクソン、キェルケゴールなどの哲学を参考にした場合でも見て取れる。東西の哲学において「私(という人格)が何をしたいのか」という問いよりも、「私が在りたがっている内的な方向感」を感じる方が意味のある問いだということは幅広く主張されているように思う。換言するならば、随意な”私”から不随意な”私”へアイデンティティの重心を移行させることだと言えるだろう。内的な作用は意のままにコントロールできない類のもの。不随意な知覚・感覚こそが”私”だと捉えるのが大きなカギになるのだ。

では我々はどうすれば「私が在りたがっている内的な方向感」を感じることができるだろうか?まあコーチングを受けていただくことが手っ取り早いと思うが、以下の記事がヒントになると思うので参照していただきたい。


自由意志なき自由へ

随意な”私”から不随意な”私”へアイデンティティの重心を移行させること。それは何者かにコントロールされる人生ではない。不随意な”私”の気持ちや情熱にスペースを明け渡す行為である。それはあなたに強い自由自在な感覚をもたらすだろう。自由意思なき自由を謳歌する。世阿弥の言う「花」を体現した先にはそのような世界が広がっている。

よく考えてみて欲しい。世間体や他人との比較に一喜一憂する、「自由意志」を持っていると見做しているところのいつもの”私”は本当に自由だろうか?外的世界から受ける刺激、外的世界にある尺度に心を奪われて、反応して物事を考えている”私”は自由から程遠い。そういう言い方もできると思う。

いまこそ”私”を解体して自由意志なき自由の領域に歩を進めようではないか。

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