クリスマスの思い出

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クリスマスの思い出
byトルーマン・カポーティ

十一月も終わりの朝を思い浮かべてほしい。二十年以上昔の、冬近い朝だ。田舎にある、広くて古い家の台所を想像してほしい。ひときわ目につくのが、黒い、立派なかまどだ。もちろんそこには大きな丸いテーブルもあるし、暖炉もあって、その前には揺り椅子がふたつ並んでいる。暖炉はちょうどこの日から、冬にふさわしいゴウゴウと鳴る音を立てはじめたところだ。

 白髪を短く刈りこんだ女がひとり、台所の窓辺に立っている。テニスシューズを履いて、夏物の綿のワンピースの上に、よれよれのグレーのセーターを重ね着している。小柄で元気がよくて、小さなメンドリのような人だ。ただ若い頃、重い病気を患ったせいで、背中が気の毒なくらい曲がってしまっている。ぱっと目立つ顔だ。リンカーンに似ていなくもない面立ちはいかつく、日の光と風にさらされた色合いをしている。だが、同時に繊細でもあり、骨のかたちが美しい。引っ込み思案をうかがわせる淡い褐色の目。その彼女が「おやまあ」と興奮した声をあげる。「フルーツケーキの日が来たよ!」

 彼女が話しかけているのは、このぼくだ。ぼくは七歳で、彼女は六十いくつか。ぼくたちは親戚、それもかなり遠縁にあたるのだが、一緒に暮らしていた――そう、ぼくが思い出せないころの昔から。家にはほかにも人がいるが、みんな親戚同士だ。だが、ほかの連中ときたらずいぶんいばりくさっていて、ぼくたちはよく泣かされた。だが、ぼくらの方はたいていのとき、連中のことなんか眼中になかった。ぼくたちは互いに親友なのだ。彼女はぼくのことを「バディ(相棒)」と呼ぶが、それは昔、親友の男の子をそう呼んでいたからだ。そっちの「相棒」は1880年代、彼女がまだ子供のころに亡くなっていた。彼女はまだ子供のままなのだけれど。

「起きる前からわかってたよ」そう言うと、窓から目を離してぼくの方を向く。目がおどるような期待に輝いている。「郡庁舎の鐘が、ひえびえと冴えかえって聞こえたんだ。おまけに鳥が一羽も鳴いてない。みんな暖かい国へ飛んでいっちゃったんだね。うん、そうにちがいないよ。さて、バディ、ビスケットをほおばるのは、もうよしにして、あたしたちの荷車を引っ張ってきてちょうだい。あたしの帽子を探すのも手伝って。これから三十本、ケーキを焼かなきゃならないんだからね」

 毎年同じだ。十一月のある朝が来る、ぼくの友だちは、夢羽ばたき、気持は高まり、胸の熱くなるクリスマスの季節が、正式に始まった、とばかりに、高らかに宣言するのだ。「フルーツケーキ日和だねぇ、あたしたちの荷車を引っ張ってきてちょうだい。あたしの帽子を探すのを手伝って」

 帽子が見つかる。つばの広い麦わら帽子で、飾りのベルベットのバラは、日に焼けてすっかり色があせている。もっと羽振りのいい親戚のお下がりなのだ。ぼくらだけの荷車、というか、壊れた乳母車を一緒に引いて、庭を抜けてペカンの果樹園へ入っていく。

その乳母車はぼくのものだ。つまり、ぼくが生まれたときに買ったものなのだ。小枝が編んである箇所はほつれかけていて、車輪は酔っぱらいの千鳥足のようにおぼつかない。それでもこいつはしっかり役に立ってくれる。春になれば、荷車を引いて森へ行き、花や香草や野生のシダをどっさり採って、玄関ポーチの植木鉢に植えてやる。夏にはピクニックの道具や砂糖キビの茎でこしらえた釣り竿を積んで、小川の岸辺へ。冬には冬の役目がある。手押し車として庭のたきぎを台所まで運んだり、クィーニーの暖かな寝床にもなるのだ。クィーニーはぼくたちが飼っているオレンジのぶちのある白いラットテリアだ。小さくて強いこいつは、ジステンパーにかかったこともあるし、ガラガラヘビには二度もかまれたのに、生き延びてきた。そのクィーニーが、いまは荷車の横を早足で駆けていく。

 三時間後、ぼくたちは台所に戻っていて、荷車にどっさり積まれた風落ちのペカンの実の皮をむいている。ペカン拾いのせいで背中が痛い。落ち葉の下や、霜の降りた草の陰に隠れている実をそれだけ探すのに、どれだけ苦労したことか(ほとんどの実は枝からふるい落とされて、果樹園のもちぬしが売ってしまったあとだった。もちろんもちぬしというのは、ぼくらのことではない)。

カリッッ! ミニチュアサイズの雷がとどろいたような、小気味のいい音を立てて殻が割れ、甘くて脂分の多い象牙色の果肉が、金色の山となって、乳白色のガラスの器に積み上がっていく。クィーニーが、口に入れてくれ、とせがむので、ときどきぼくの友だちがかけらをこっそりと食わせてやる。だが、ぼくたちは自分の口には絶対に入れない。「あたしたちが食べちゃいけないんだよ、バディ。ひとたび食べ始めちゃったら、もう止まらなくなっちゃうからね。だいたいこれだけあっても、足りるか足りないかってとこなんだ。なにしろフルーツケーキ三十本なんだもの」

台所は少しずつ暗くなっていく。宵闇が窓ガラスを鏡に変える。窓にぼくたちの姿が映り、暖炉の火に照らされて手仕事を続けるぼくたちのあいだに昇ってきた月が仲間入りする。ついに、月が天高くなったころ、ぼくたちは最後の殻を火に放り込み、一緒にため息をついて、火に包まれた殻を眺める。荷車は空っぽ、ボウルは山盛りだ。

 ぼくらは晩ご飯(冷えたビスケット、ベーコン、ブラックベリーのジャム)を食べながら、明日のことを話し合う。明日にはぼくの一番好きな仕事が始まるのだ。買い出しだ。さくらんぼにシトロン、ショウガやヴァニラ、ハワイ産のパインアップル、オレンジの皮や干しぶどう、くるみにウィスキー、そうそう、小麦粉もバターも卵もスパイスも香味料も山ほど。おやおや、家まで荷車を引くのに、ポニーが必要かもしれない。

 とはいえ、こうした物が買えるかどうか、お金の問題が残っている。ぼくたちのどちらも、少しもお金を持っていないのだ。ごくたまに、家の誰かが雀の涙ほどのお小遣いをくれたり(十セント硬貨一枚でも大盤振る舞いだ)、ぼくたちがいろんなことをやって稼ぐしか当てがない。がらくた市を開いたり、摘んだブラックベリーを手桶に入れたり、ジャムやアップル・ゼリーや桃の砂糖漬けを作って瓶に詰めたりして売ったり。お葬式や結婚式のために花をどっさり摘んだり。

ぼくたちは一度、全米フットボールコンテストで七十九位になって、五ドルを手に入れたことがある。フットボールのことなんてちっとも知らなかったのだが。懸賞があると聞けば、何だって参加した。ちょうどいま、ぼくたちが望みを託しているのは、一等賞金五万ドルのコンテストで、今度発売されるコーヒーに名前をつけるというものだ(ぼくらは「A.M.」という名前を出した。友だちが、主を冒涜することになりはしないか、と言い出したので、ぼくたちはしばらく迷ったのだが、キャッチフレーズを「A.M.! アーメン!」とした)。

正直に言うと、ぼくらが企画した中でほんとうに利益が上がったのは、二年前の夏、裏庭のたきぎ小屋で開催した「楽しくて不思議な博物館」だけだった。「楽しい」というのは、ワシントンとニューヨークを写したネガを、立体幻灯機を使って映し出すというものだった。写真はそこに行った親戚が貸してくれた(のだが、あとでぼくたちがどうして幻灯機を借りたのかを知って、ひどく腹を立てた)。「不思議」の方は、三本足のひよこで、ぼくたちが飼っているめんどりが生んだのだ。近所のみんながひよこを見たがった。ぼくたちは大人から五セント、子供から二セントもらった。それで二十ドルも稼いだのだが、目玉の出し物が死んでしまったので、博物館も閉館の憂き目を見たのだった。

 とにもかくにも、あれこれ算段を重ねて、ぼくたちは毎年クリスマスのためにお金を蓄えていく。まさにフルーツケーキ基金だ。そのお金は、古ぼけたビーズの財布の中にしまい込んで、ぼくの友だちのベッドの下、床のおまるを置いた場所の真下の、ゆるくなった羽目板の下に隠しておく。財布はめったなことではそこから出てこない。取り出すのは、預金するときか、毎週土曜日に引き出すとき。というのも、土曜日、ぼくは映画を見に行くために十セント、お小遣いがもらえたからだ。

ぼくの友だちは、映画に行ったこともなかったし、行きたいとも思わなかった。「あたしはあんたの話を聞いてる方がいいんだよ、バディ。その方がもっと想像をふくらませることができるからね。それにさ、あたしぐらい年寄りになると、もう目を無駄に使っちゃいけないの。主がいらしったときに、御姿をはっきり見せていただかないとね」

映画を観たことがないばかりではない。そのほかにも、彼女はレストランで食事をしたことも、家から八キロ以上離れたところへいったこともないし、電報は受けとったことも出したこともなく、新聞の連載漫画と聖書を除けば何かを読んだこともない。化粧したこともなければ、悪態をついたこともなく、人に禍が起こればいいなどと思ったこともない。わざと嘘をついたこともなければ、腹ぺこの犬をほったらかしにしていたこともなかった。

それじゃ、こんどは彼女がこれまでにやったことや、していることをあげてみよう。この郡で見つかった限りでは、一番巨大なガラガラヘビを鋤で殺したし(ガラガラが十六個ついていた)、嗅ぎタバコをやるし(こっそりとだが)、ハチドリを慣らして指に留まらせることもできる(できるものならやってみるといい)、お化けの話をさせれば(ぼくたちはふたりともお化けがいると信じている)七月でも背筋が凍るし、独り言を言うし、雨の中を散歩するし、村一番の美しい椿を育てているし、昔から伝わるインディアンの薬の配合なら全種類知っている。魔法みたいにイボを取ることだってできるのだ。

 さて、夕食が終わったので、ぼくたちは家の外れにある友だちの部屋に戻っていく。そこで、彼女は余りぎれで作ったキルトカバーをかけて、大好きなローズ・ピンクに塗った鉄のベッドで横になるのだ。押し黙ったぼくたちは、共謀の喜びに身を浸しつつ、例の秘密の場所からビーズの財布を取りだして、中身をキルトの上にばらまく。

ドル紙幣はきつく巻いてあって、五月のつぼみのような緑色をしている。陰気な色の五十セント玉は、死者の目を開かなくさせるほどの重みがある。きれいな十セント玉は一番いきいきとしていて、ほんもののクリスマスの鐘のような音を立てる。五セント玉と二十五セント玉は、すり減ってしまっていて、小川のなかの小石みたいだ。だが、ほとんどは気の滅入るようなにおいのする一セントの憎たらしい山だ。

去年の夏、ぼくたちは家にいる連中から仕事を請け負った。二十五匹、ハエを殺すのと引き換えに、一セントもらうのだ。まったく八月の大殺戮だった。天国に行ったハエ君たち。とてもじゃないが、自慢できるような仕事じゃない。こうやってすわって一セント硬貨を勘定してても、なんとなく死んだハエをもう一度集計しているような気がしてくる。

ぼくたちはふたりとも計算に向く頭のもちぬしではない。数えるのは遅かったし、しょっちゅうわからなくなって、初めからやり直す。彼女の計算によれば、ぼくたちは12ドル73セント、持っていることになる。だが、ぼくの数えたところでは、きっかり13ドルになるのだった。「あんたがまちがってたらいいんだけどね、バディ。13なんていう数と係わり合いになるなんてことは願い下げだよ。ケーキが崩れてしまうかもしれない。それとも誰かがお墓に入るか。ほんと、あたしなら十三日はベッドから出るのも願い下げだね」

これはほんとうにその通りなのだ。彼女は十三日が来るたびに、一日中ベッドのなかで過ごす。だからバチが当たらないように、ぼくたちは一セントを窓の外に放り投げた。

 ぼくたちがフルーツケーキをつくるときの材料の中で、ウィスキーが一番高く、手に入れるのが大変だ。なにしろ州法で販売が禁じられているのだから。とはいえ、ミスター・ハッハ・ジョーンズのところに行けば一本買えることは、みんなが知っている。だからつぎの日、どうってことのない買い物を先にすませ、ぼくたちはミスター・ハッハが商売をしている、魚フライとダンスができることが売り物の、川沿いの「罪深き」(と世間では評判の)カフェに向かった。

以前もそこに出かけたことがあるが、もちろん同じものを買いに行ったのだ。でも、それまでは、ぼくたちが買ったのはミスター・ハッハの奥さんの方で、ヨードチンキみたいな肌の色をしたインディアンの女の人で、髪の毛はオキシドールで漂白して金属みたいな色、なんだかひどく疲れているような感じの人だった。

ぼくたちは実際にはその人のご主人を見たことがなかったのだが、その人もインディアンだということだった。身体がずいぶん大きくて、両頬にカミソリの傷跡があるらしい。みんながハッハと呼んでいるのは、その人がやたらと暗い人で、声を上げて笑うということがないからなのだ。

カフェに近づくにつれ(そこは大きな丸太小屋で、内も外もけばけばしい裸電球がいくつも紐でつないであった。岸辺の土のやわらかいところに、川沿いに生えた木の陰にすっぽりとおさまるように建っていた。木々の枝からは灰色の霧のように苔が垂れ下がっている)、ぼくたちの足取りは重くなる。クィーニーでさえ、ぴょんぴょん跳ね回るのもやめて、ぼくたちにぴったり寄り添って進んでいる。

ハッハのカフェでは何人もの人が殺されていた。切り刻まれた人もいる。頭を割られた人もいた。来月もある事件をめぐって裁判が開かれることになっているのだ。あたりまえの話だが、そんな事件が起こるのは夜中、彩色された電球が、あたりを狂ったまだら模様に染め、蓄音機がむせび泣く時間だ。昼間はハッハのカフェもみすぼらしく、うち捨てられている。ぼくはドアをノックする。クィーニーが吠え、ぼくの友だちが声をかけた。「ハッハの奥さん、いらっしゃいます? どなたかおいでじゃありませんか?」

 足音がする。ドアが開いた。ぼくたちの心臓はひっくり返りそうになる。ミスター・ハッハ・ジョーンズその人ではないか! 実際、巨人のようだ。確かに傷跡もある。笑ってない。いや、ぼくたちを悪魔のようにつり上がった目でぎろりとにらみつけ、聞いた。「ハッハに何の用だ」

 一瞬、ぼくたちは言葉を失う。じきにぼくの友だちの方が、なんとか声、というか、蚊の鳴くような声が出せるようになる。「もしよろしかったら、ミスター・ハッハ、おたくのすばらしいウィスキーを1リットルほど、分けていただけないでしょうか」

 彼の目がいっそうつり上がる。信じられるかい? ハッハがにっこりした! 声まであげて笑っている。「どっちが飲むんだね、奥さん」

「フルーツケーキを作るためなんです。ミスター・ハッハ、料理です」

 これには彼もがっかりしたようだ。眉をひそめている。「ちゃんとしたウィスキーをそんな無駄遣いさせるわけにはいかないな」そうはいっても彼は暗いカフェに戻り、すぐにラベルのついていない、ヒナギクのように黄色い液体が入った瓶を持って戻ってくる。日の光にかざして、キラキラと光るのを見せびらかす。「二ドルだ」

 ぼくたちは五セント玉や十セント硬貨、一セント玉で払う。すると急に、彼は手の中の硬貨をサイコロでも振るようにじゃらじゃらいわせ始め、優しい顔になる。「こうしよう」と彼はそのお金をぼくたちのビーズの財布のなかに流し込んで、もちかける。「かわりにフルーツケーキを一本、寄越してくれ」

「まあ」ぼくの友だちは帰りがけに感想をいう。「いい人だってことだね。あの人のケーキには、干しぶどうを一カップ、余分に入れてあげることにしよう」

 黒いかまどは石炭とたきぎがくべられて、火の入ったカボチャ提灯のように輝いている。卵を入れた泡立て器をぐるぐるとかきまわし、スプーンはバターと砂糖の入ったボウルの中で円を描く。ヴァニラの甘い香りが空気を満たし、ショウガがそれにスパイスを効かせる。うっとりするような、鼻がうずくようなにおいが台所にあふれ、家の中に広がり、煙突から吐き出される煙と一緒に、世界中へ運ばれていく。四日後、ぼくらの仕事は終わる。三十一本のフルーツケーキ、ウィスキーをふりかけられて、窓の台や棚の上でひなたぼっこをする。

 こうしたケーキは誰のためにげるものなのか?

 友だちだ。近くに住んでいる人ばかりではない。実際のところ、ケーキの大半は、一度しか会ったことのない人や、一度も会ったことがない人に贈られる。たとえばルーズヴェルト大統領。ルーシー牧師とその奥さんのミセス・J・C・ルーシー。この人たちはバプティスト派の宣教師でボルネオに派遣されているのだが、去年の冬、ぼくたちの町に来て、講演をしてくれた。それから年に二度、この町にやって来る小柄な鋳掛け屋。アブナー・パッカーはバスの運転手で、毎朝六時にモビールからやってくる。毎日、ぼくたちと手を振り合い、もうもうとあがる土埃の向こうにシューッという音を立てながら去っていくのだ。ほかにもウィストンさんという若夫婦。この人たちはカリフォルニアの人で、ある昼下がり、ぼくたちの家の前で車が故障してしまって、一時間ばかり、家のポーチでぼくたちは一緒におしゃべりを楽しんだ(お兄さんのようなミスター・ウィストンがぼくたちの写真を撮ってくれたのだが、これがぼくたちが写っている一枚きりの写真だ)。

誰に対しても恥ずかしがり屋のぼくの友だちが、行きずりの人や、ほんのちょっとだけ知っているような人に対してはそうではないから、こうした人たちがとびきりの親友のような気がするのだろうか。たぶんそうなんだろう。ぼくたちのスクラップブックには、ホワイトハウスの用箋にしたためられたお礼状や、ときどきカリフォルニアやボルネオから来る手紙、鋳掛け屋がくれた一セントのハガキが収められていて、台所の窓から見えるものといえばたったひとつ、空だけのぼくたちだけれど、波乱に富んだ世界とこうやって結びついているような気がしてくるのだ。

 いまは十二月、葉を落としたイチジクの枝が、窓をきしませている。台所は空っぽで、ケーキはもうどこにもない。昨日、最後に残ったケーキも郵便局へ運んでいった。切手代でぼくたちの財布は空っぽになった。もう一文無しだ。そのせいで、ぼくはけっこう落ち込んでいるのだが、ぼくの友だちの方は、お祝いをしなくちゃ、と言い張っている。ハッハから買った瓶の底に、まだ五センチほどウィスキーが残っているのだ。

クィーニーはボールに入れたコーヒー(彼女はチコリの香りがする濃いコーヒーが好きなのだ)にスプーン一杯のウィスキーを入れてもらう。残りは、一対の小さなグラスに分ける。ぼくたちはふたりとも、ウィスキーを生で飲むかと思うと、なんだか恐るべきことをするような気がしてくる。一口飲んだとたん、顔がくしゃくしゃになって、身ぶるいがしてくる。だが、しばらくするうちに、ぼくたちは歌い出している。

ふたりで同時に別々の歌を歌うのだ。ぼくはあまり歌詞をよく知らなくて、ここしか歌えない。「さあ、行こうぜ、さあ、行こうぜ、黒い町のいかしたダンスパーティに」でも、ダンスならできる。ぼくはタップダンサーになって映画に出ようと思っているのだから。

踊っているぼくの影が、壁の上ではしゃぎ回る。ぼくたちの声で食器がガタガタとふるえる。ぼくたちはクスクス笑う。まるで見えない手がぼくたちをくすぐっているみたいに。クィーニーはあおむけに寝っ転がって、前足で宙をかき、黒い口はニヤニヤ笑っているように見える。ぼくの体は熱くなり、いまにも火花を発しそうだ。燃えてパチパチと音を立てながら崩れていくたきぎや、煙突の中を吹きあがる熱風のように。ぼくの友だちはかまどのまわりでワルツを踊り、みすぼらしい木綿のスカートのすそを、パーティドレスのように指先でつまんでいる。「家に帰る道を教えて」と彼女は歌う。テニスシューズが床をきしませる。「家に帰る道を教えて」

 人が入ってくる。親戚がふたり。とても怒っている。憤慨した目はつり上がり、舌から火を吐いている。ふたりが言うのを聞いてみてほしい。ふたりの言葉が重なって、怒りのメロディが始まる。「七つの子じゃないか! ウィスキー臭い息をさせて! 気は確かかい? 七歳の子に飲ませるだなんて! どうかしてるよ! 悪の道へ真っさかさまだ! いとこのケイトを忘れたのかい? チャーリー伯父さんの義理の弟のことも? 恥知らずが! なんてみっともないことをしでかすんだ! 面汚しだよ! ひざまずいて祈りなさい、主にお許しを請うんだよ!」

 クィーニーはかまどの下にこそこそともぐっていく。ぼくの友だちは、つま先にじっと目を落としたまま、あごを震わせている。スカートをたくしあげ、鼻をかんでから、自分の部屋に逃げるように帰っていく。

町はもうずいぶん前に眠りにつき、家の中もしずまりかえって、時計が時を刻む音と、消えかけた火がはぜる小さな音のほかには何も聞こえないけれど、彼女は枕に顔を埋め、むせび泣いている。枕は後家さんのハンカチみたいにぬれそぼっている。

「泣くのはおよしよ」とぼくは言って、彼女のベッドの足の方に腰を下ろす。ぼくは去年の咳止めシロップのにおいがするフランネルのナイトガウンを着ているのに、がたがた震えてしまう。「泣かないで」ぼくはそう頼むと、彼女のつま先にさわり、足の裏をくすぐってやる。「もう大きいんだから泣いちゃおかしいよ」

「だからだよ」と彼女がしゃくりあげる。「大きくなりすぎて、年寄りになっちゃった。おかしい年寄りなのさ」

「おかしくなんかない。おもしろいだけだよ。誰よりもおもしろいよ。ねえ、そんなに泣いてたら疲れちゃって、明日木を切りに行けないよ」

 彼女は背筋をしゃんと起こす。クィーニーはベッドに跳び乗って(そこにクィーニーが上がることは許されていないのだ)彼女のほっぺたをなめまわす。「ほんとにいい木が見つかる場所を知ってるんだ、バディ。ヒイラギもね。おまえの目玉くらいの大きさの実がついてるような。森の奥の方なんだよ。いままで行ったこともないぐらいの。パパはよく、クリスマスツリーをそこから切ってきてたよ。肩にかついでね。五十年も前のことだけど。ああ、いよいよなんだ。朝になるのが待ちきれないよ」

 朝がくる。凍った霜が草をきらきらと輝かせている。太陽はオレンジのように丸く、そのオレンジ色はまるで夏の夜の月みたいだ。地平線の上で、まるでバランスを取ってるみたいにふわっと浮かんで、銀色の冬木立をきらきらと光らせている。野生の七面鳥が鳴く。はぐれた野ブタが鼻面で下生えをつついている。やがて膝ほどの深さの流れの急な川に行き当たり、ぼくたちは荷車を引いていくのをあきらめなければならなくなる。

最初にクィーニーが渡る。流れの速さと、肺炎になりそうな冷たさに、不満そうな吠え声を上げながら、必死で水をかいている。ぼくたちも靴や手回りの品(手斧と南京袋)を頭の上にのせて、クィーニーのあとをついていく。そこからさらに一キロ半。

お仕置きのつもりなのか、棘やイガ、イバラが服に引っかかる。錆びたような色合いの松葉も、けばけばしいキノコや、抜けた鳥の羽で飾り付けされたみたいだ。あちらでもこちらでも、目の前を何かがかすめ、羽ばたく音が聞こえ、鳥の怒ったような鋭い声がして、鳥がみんな南へ渡ったわけではないことがわかる。小道はどこまでも曲がりくねりながら続いていき、レモン色の日だまりを通り、からまりあった蔓のトンネルを抜ける。

渡らなければならない小川がもうひとつ。小さな斑点のついたマスの大群が驚いて、ぼくたちのまわりで盛大な水しぶきをあげる。皿ほどもある大きなカエルが、腹飛び込みの練習をしている。働き者のビーバーは、ダム建設の真っ最中だ。向こう岸でクィーニーは毛を揺すって水を吹き飛ばしたあと、寒そうに身を震わせる。ぼくの友だちの体も震えている。だが、それは寒いからではなく、興奮しているからだ。彼女がこうべを高く上げ、強い松の匂いを深く吸い込んだとき、帽子かざりの朽ちたバラの花びらが一枚、ひらひらと散る。「すぐそこだ、おまえも匂いがわかるだろう、バディ」と彼女が言う。まるで、すぐそこに海があるかのように。

 だが、確かにそこは海と呼んでもいいのかもしれない。クリスマスツリーが草いきれを放ちながら、見渡す限りに広がっているのだから。赤い実は中国の鐘のように輝き、黒いカラスたちが声高に鳴き交わしながら木に舞い降りていく。ぼくたちは何十枚もの窓が飾れるほどの緑の葉と真紅の実を持ってきた南京袋に詰め込んでから、木を選びにかかる。

「木っていうのは」とぼくの友だちは考え深い声でいった。「男の子の二倍くらいの丈が必要だね。そうでなきゃてっぺんの星が取られちまうよ」

ぼくたちが選んだのは、ぼくの倍くらいの高さの木だ。雄々しく、美しく、しかも荒々しい木は、手斧を三十回ほども振り下ろさなければならない。だがついに、身を引き裂かれるような悲鳴をあげて、木は倒れる。ぼくたちはまるで獲物のように引きずって、長い帰途につく。数メートルごとに、悪戦苦闘を中断し、すわりこんでぜいぜいと息をあえがせる。だが、勝利を治めた狩人は強い。しかも、生命力にあふれ、氷のように冷たい木の香を嗅いでいると、元気がふたたびよみがえってくる。

 夕方、町へと続く赤土の道を戻る途中、あちこちから賞賛の声があがる。だが、ぼくの友だちは、荷車に積んだ宝物を通りがかりの人にどれだけ褒められても、いたずらっぽい、素知らぬ顔で、笑顔を向けるだけだ。

すばらしい木じゃありませんか、どこで取ってきたんです?
「奥の方で」と、もそもそと曖昧なことしか言わない。一度などは車が停まって、羽振りの良い工場のものぐさな奥方が、身を乗り出しながら哀れっぽい鼻声で話しかけてくる。「その木を25セントで譲ってもらえないこと?」いつもはなかなか断ることができないぼくの友だちも、今度ばかりはきっぱりと首を横に振る。「1ドルでもお断りですよ」経営者夫人も食い下がる。「1ドルですって? なんてこと! 50セントじゃいかが。これ以上はムリよ。ねえ、奥さん、あなたのはまた切りに行けばいいんじゃない?」ぼくの友だちは、角が立たないように答える。「どうでしょうね。この木はまたとないものですからね」

 家だ。クィーニーは火の前で寝そべり、翌日までぐっすり眠る。人間並みの大きないびきをかきながら。



 屋根裏のトランクに入っているもの。靴箱に入った白イタチの尻尾(マントから取れたもので、そのマントは以前この家に間借りしていた風変わりな女性の持ち物だった)、巻いたクリスマス・モールは、すりきれ、古びて色が落ち、金色になってしまっている。銀の星がひとつ、ほころびて、見るからに危険なコードには、キャンディみたいな豆電球がくっついている。これだけ見るぶんには、なかなかすてきな飾りではあるのだが、どう見ても十分とは言いがたい。ぼくの友だちは「バプテスト教会の窓みたいに」、まるで雪の重みでしなう枝のように、飾りつけをいっぱいして、輝かせたいのだ。

でも、ぼくたちには十五セントもする日本製の豪華な飾りを買うお金がない。だから、いつものやり方で解決する。何日も、台所の食卓に向かって、ハサミとクレヨンと色紙の束と格闘するのだ。ぼくがスケッチをして、友だちが切り抜く。ネコがたくさん、魚もたくさん(というのも、描くのが簡単だからだ)、リンゴをふたつ、みっつ、スイカもふたつ、みっつ、同じように羽の生えた天使も。天使は取っておいたハーシー・チョコレートの銀紙で作る。こうしたかざりをぼくたちは安全ピンで木に留めるのだ。仕上げは枝にちりばめたくず綿だ。このために八月から取っておいたのだ。ぼくの友だちはできばえを見渡し、両手を固く組み合わせた。「さあて、まったくのところ、バディ、すばらしくって食べてしまいたいくらいじゃないか!」事実、クィーニーは天使を食べようとする。

 ヒイラギにリボンを編みこんで、クリスマスのリースを窓という窓に飾ってから、つぎの仕事は家族全員へのプレゼントだ。女性たちには絞り染めのスカーフ、男性陣にはレモンと甘草とアスピリンのシロップ、これは「風邪の初期症状が出た際、及び、狩りのあと」に服用するものだ。

けれども、お互いへのプレゼントを作る番がくると、ぼくの友だちとぼくは分かれて、こっそり作業に取りかかる。ぼくが買ってあげたいのは、真珠の柄のナイフと、ラジオと、チョコレートコーティングしてあるサクランボをたっぷり五百グラム(一度味見したてからというもの、彼女は繰りかえし、真剣な顔をして言うのだ。「バディ、あたしはあれさえあれば生きていけるよ。主に誓って本当だ。あたしはみだりに主の御名を唱えるようなことはしない人間だけどね」)なのだ。でも、その代わりに凧を作ってあげる。

彼女はぼくに自転車を買ってやりたい(彼女は何百万回もそう繰りかえした)。「もしあたしに買えるものならね、バディ。ほしいものがあっても、それが手に入らなきゃ、人生は辛いよね。だけど、それよりもっといまいましいのは、誰かに何かをあげたいのに、あげられないってときだ。だけど、いつかきっと手に入れてあげるからね、バディ。おまえのために自転車を調達してきてあげる。どうするつもりかは聞かないでおくれ。盗みでもしかねないんだから」)。その代わりに、ぼくのために凧をこしらえてくれているのではなかろうか。去年もそうだったし、その前の年もそうだった。その前の前の年、ぼくたちはパチンコを交換した。ぼくにとっては、どれもとびきりの贈り物だった。というのも、ぼくたちは凧揚げのチャンピオンだったし、船乗りのように風向きを読むことができたのだから。ぼくの友だちは、ぼくよりもさらに上手で、雲がはりついたような風のない日でも、凧を天高く泳がせることができるのだ。

 クリスマス・イブの午後には、ぼくたちは五セントをどうにか工面して、肉屋で毎年恒例のクィーニーへの贈り物を買う。かじるのにもってこいのとびきりの牛の骨だ。骨は、新聞のマンガページに包んで、ツリーのてっぺんの星のすぐそばに飾っておく。クィーニーはそこにあることを知っている。ツリーの根本に寝そべって、ものほしげな目でツリーを見上げている。寝る時間になっても、腰をあげようとしない。ただ、クィーニーがどれほど興奮しているにせよ、ぼくだって負けてはいない。ぼくは上掛けを蹴っ飛ばし、枕をひっくりかえす。ちょうど暑苦しい夏の夜みたいに。どこかで雄鶏が鳴き始める。でもそれはまちがい。まだ太陽は地球の反対側にあるのだから。

「バディ、起きたかい?」ぼくの友だちが、隣の部屋から声をかける。つぎの瞬間、ロウソクを手に持って、ぼくのベッドに腰掛けている。「おやおや、あたしときたら、ほんのちょっぴりだって眠れそうにないよ」と彼女はいう。「心臓が野ウサギみたいにぴょんぴょん跳ねてるんだ。バディ、ルーズヴェルト夫人は明日の夕食に、あたしたちのケーキを出してくれるかねえ?」

ぼくたちはベッドの上で体を寄せ合い、彼女はぼくの手をぎゅっとにぎりしめる。愛している、というように。「おまえの手も、前はもっとずうっと小さかったのにねえ。おまえが大きくなるのがいやなんだ。大きくなっても、ずっと仲良しでいられるかしらねえ」

ぼくは、ずっと友だちだよ、という。
「だけどね、バディ。あたしはすごく悲しいんだよ。自転車をどれだけおまえのために買ってやりたいか。パパがくれたカメオを売ろうとしたんだよ」――彼女は、まるで恥ずかしがっているかのように口ごもる――「でもね、今年もまた凧を作ったのさ」

そこでぼくも凧を作ったんだ、とうち明ける。それからふたりで大笑いする。ろうそくは手で持っていられないほど短くなってしまった。やがて火が消えたせいで、星明かりがいっそう明るくなる。窓辺でくるくる回る星たちは、夜明けのしじまのなかにゆるやかに響くクリスマスキャロルを、目で見せてくれるみたいだ。おそらくぼくたちはうとうとしていたのだろう。それでも最初の日の光が差しこむと、冷たい水を浴びせかけられたように、ぱっと目が覚める。ぼくたちは起き出して、あたりをぶらぶらしながら、ほかの人たちが起きてくるのを待つのだ。

ぼくの友だちはわざと台所の床にやかんを落とす。ぼくは閉じたドアの外でタップダンスを踊る。家の人たちが、ひとり、またひとりと起きてきて、ぼくたちを殺してやりたいという目でにらむ。だが、クリスマスにそんなことができるはずがない。

まずは豪華な朝食だ。朝食という言葉で想像しうるものすべてがそろっている。パンケーキから、リスのフライ、ひき割りトウモロコシに、巣に入ったままの蜂蜜まで。そのおかげでみんながご機嫌になるが、ぼくの友だちとぼくはそうではない。ほんとうのところ、ぼくたちはプレゼントのところへ行きたくてたまらず、一口だって食べられそうにないのだ。

 でも、ぼくはがっかりする。がっかりしない人がいるだろうか。靴下、日曜学校に着ていくシャツ、ハンカチが数枚、おさがりのセーター、子供向け宗教雑誌「小さき羊飼い」の一年分の予約購読証。見ているうちにむかっ腹がたってくる。まったくそうじゃないか。

 友だちの手に入れたものの方が、まだましだ。温州みかんひとふくろが、もらった中では一番よさげなプレゼントだが、彼女は嫁いでいる妹から贈られてきた手編みの白いウールのショールに鼻高々だ。でも、なんたってあたしがもらった中で一番のお気に入りは、おまえが作ってくれた凧だよ、と彼女は言う。だってとってもきれいじゃないか。だが、彼女がぼくに作ってくれた凧は、さらに美しい。青で、善い行いをしたご褒美の金と緑の星がちりばめられている。なによりすてきなのは、ぼくの名前が書き込んであることだ。「バディ」と。

「バディ、風が吹いてるよ」

 風が吹いているとなると、何をおいても家の下の牧草地へ走って行かなければならない。クィーニーが先に来ていて、もらった骨を埋めている(そうしてつぎの冬には、クィーニー自身がそこに埋められることになる)。威勢よく生い茂って腰まで伸びた草のあいだを突き進みながら、ぼくたちは凧の糸を解いてゆく。空を泳いでいる魚が釣り糸にかかったように、凧糸がぴくぴく引くのを感じる。満ち足り、日の光に暖められて、ぼくたちは草の上に寝っ転がって、みかんの皮をむき、ぼくたちの凧が遊び、たわむれるのを眺める。じきにぼくは靴下も、お下がりのセーターのことも忘れてしまう。幸せだ。もう、コーヒーの名前つけコンテストでグランプリを射止め、五万ドルを手に入れてしまったみたいに。

「ああ、あたしはこれまでどれくらいバカだったんだろう」ぼくの友だちが、急に驚いたように、ちょうど女の人がオーブンのなかにビスケットを入れていたのを、ずいぶんたってから思い出したみたいに叫んだ。「あたしがこれまでずっとどんなふうに思ってきたかわかるかい?」何かを見つけたようにぼくに聞く。だがその顔は、ぼくに向かって笑いかけているのではなく、その向こうにある何かをじっと見つめている顔だ。

「あたしはね、これまでずっと、主にお会いしようと思ったら、人間は病気になって死ななくちゃならないものだとばかり思ってたんだよ。そして、主がお越しになったときには、バプティスト教会の窓を見ているような感じなんだろうって思ってた。ステンドグラスに日の光が差しこんでくるみたいに、きれいで、あんまりまぶしくって、あたりが暗かろうがそれもわからないみたいな感じだろうってね。そう考えると、なんだか安心できたのさ。その光のおかげで、おっかない気持はどこかへうっちゃられてしまうにちがいないって。だけど、そんなことは起こらないよ。賭けてもいい。最後の最後に人は悟るんだ。主は御姿を、これまでもずうっとあたしたちの目の前に現しておられたんだ、ってね、まちがいないよ。ものごとはすべてあるがままの姿をしているんだって」――彼女の手が、雲も凧も草も、骨を埋めた地面を前脚でかいているクィーニーもひっくるめて、大きな円を描く――「人がずっと目にしてきたものは、どれもみな、主の御姿だったんだよ。今日という日をこの目に収めたまま、あたしはここで死んでもいい」

 これがぼくたちが一緒に過ごした最後のクリスマスだ。

 世間がぼくたちを引き裂く。心得顔の連中が、ぼくを陸軍学校に入れることにしたのだ。そこから先は、軍隊ラッパの鳴り響く監獄と、情け容赦のない起床ラッパにたたき起こされるサマーキャンプの悲惨な日々が続く。新しい家もできた。だが、そんなものが家など呼べるものか。家とはぼくの友だちがいるところ。そしてぼくがもはや行くことのないところなのだから。

 そこに彼女は残り、台所をあてもなくうろうろしている。ひとりきりで、クィーニーと一緒に。やがて、ほんとうにひとりぼっちになってしまう(「親愛なるバディへ」と彼女がへたくそな読みにくい字で手紙を書いてくる。「きのう、ジム・メイシーの馬がクィーニーを強く蹴りました。ありがたいことに、クィーニーは長いこと苦しまずにすみました。わたしは上等のリネンのシーツにあの子をくるんでから、荷車に乗せて、シンプソンの牧草地まで運んで、あの子が埋めた骨と一緒にいられるように……」)。

それから十一月が来て、彼女ひとりでフルーツケーキを焼くことが、何年か続く。前のように多く焼くわけではなく、ほんの数本にすぎない。もちろん、彼女がぼくに送ってくれるのは「いちばんうまく焼けたやつ」だ。そうして、手紙のなかにはかならずトイレット・ペーパーにしっかりくるんだ十セント玉が入っている。「映画を観て、その話を教えてください」と。だが、しだいに彼女の手紙は脈絡を欠いてきて、ぼくともうひとりの友だちとを混同するようになる。もう一人のバディ、1880年代に亡くなった人だ。だんだん、十三日以外にも彼女がベッドから起きて来ない日が増える。そして、十一月のある朝が来る。木々の葉もすっかり落ち、鳥の姿もない、冬の気配のたちこめる朝だ。だが、彼女が身を起こし、「おやまあ、フルーツケーキの日が来たよ」と叫ぶことはもうない。

 そうしてそのことが起こったとき、ぼくにはそれがわかる。知らせが来ても、それをただ裏づけるだけだ。眼には見えない絆を通じて、すでに知っていたのだから。それが、ぼくのかけがえのない部分を切り離してしまう。ぼくのその部分は、まるで、糸の切れた凧のように虚空へ飛んでいってしまう。今日、この十二月の特別な朝、ぼくが校庭を歩きながらずっと空を見ているのは、そのためだ。心臓みたいな形をした、ふたつひと組の糸の切れた凧が、天国に向かって急ぐのが見えないかと思って。


END.

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