短編小説(2)不思議
今年も今日という日を迎えた。生まれてきたことを感謝する日。世間では、それを「誕生日」と呼ぶ。
「おめでとうございます」
ネット上でもこの日を祝う言葉が飛ぶ。顔も性別も分からない文字だけの世界で、まさに文字だけが流れていく。僕が生まれた頃はお父さんもお母さんもこんなお祝いの形を想像できなかっただろう。きっと、それは時代の流れなのだ。そう考えると、不思議だと思うが、現実世界に一つ目を向ければ、それは何も不思議ではなく、ごくごく当たり前のことで何一つ不思議なことではなくなる。
「ありがとうございます! また一つ歳を取りました」
言葉を返すと「良い一年を過ごしてくださいね!」と返事がまた流れる。そんな光景を見ながら、ふと気が付く。
「良い一年を過ごしてください」
この言葉。どこかで耳にしていないか? そうだ。年が明けたとき皆が口をそろえて言うのだ。また一つ不思議なことが起こった。今回はそれが当たり前だと流すことは僕の中で出来なかった。言葉を商いとする人々の中で息をする身としては少し違和感を覚えてならなかった。
「はい。プレゼント。生まれてきてくれたことに感謝しないとね」
僕は妻からプレゼントとして小説を書きやすいようにと万年筆と原稿用紙のセットをもらった。万年筆は何本もダメにしてしまうため助かる。ネット上で小説を公開し、作家仲間と話すことが多くなったのは事実だが、僕は執筆スタイルとして原稿用紙と万年筆から離れることはしていない。昔の文豪に近づきたいから。いや、単純にこのスタイルが学生時代からモテて、仕方なかったからだ。妻が知ったら、きっともう万年筆はプレゼントしてくれないだろうな。
「ケーキもあるの!」
甘ったるいのは嫌いだと知っているはずなのに買ってくるのは妻が食べたいがためだろう。
「じゃーん! チーズケーキ! スフレだから、あなたも食べられるだろうと思って」
確かにスフレのチーズケーキならそんなに甘くない。ふわふわしていて生クリームのような胸焼けは比較的少なくて済む。妻は僕のことを考えて買ってきてくれたのか。いや、多分だが、カロリーの低いケーキにして極力お腹には付かない物でおいしい物を選んだといったところか。
「食べるでしょ?」
「あぁ」
それでも僕は妻のことが嫌いではない。僕が売れない作家であろうと、「稼ぎはあたしがなんとかすればいいから。あなたは作家として胸を張っていてね! あたしは作家のあなたが好きだから」と僕のことを好きになってくれたのだ。待てよ。さっき僕は万年筆でモテたと話したが、妻もまんまと万年筆で引っかかったのか? それはそれで僕の作戦勝ち……。いや、何でもない。
「無事、歳を取れてよかったです!」
「よくないよ。寿命に一歩近づいたんだから」
妻の言葉に僕はケーキをフォークでつつきながら少し顔を暗くする。
「バカ。あたしと一緒にいる時間がまた長くなったってことよ。生まれてきて、あたしと出会って恋に落ちて、一緒に生活するようになった時間があたしと知り合うまでの時間を越えたときようやくあたしたちは夫婦になれる。あたしはそう思ってるの」
妻の言葉に隠された事実。妻に会うまでの時間と出会ってからの時間。そして、一緒になってからの時間。それぞれの時間が追いつき、追い抜いたとき、本当の関係が見える。
これまた不思議だな。だけど、これも今ここにいれば不思議ではなくなる。隣に妻がいて、ケーキを美味しそうに食べている。僕もケーキをフォークでつつきながら、お酒を手にしている。誕生したこと、生まれてきたことを祝ってもらいながら。
もちろん、生まれてきたことは妻に出会うためであるのと小説を書くことと。そんな大それたことではなく、スフレのチーズケーキを食べることと、万年筆と原稿用紙をもらうためだったのかもしれないけど。
世の中、不思議なことの繰り返しだ。不思議に思わないで生きている人なんてほとんどいない。なにかしら疑問を抱いて生きているに決まっている。僕もこれから先、数え切れないくらいの不思議を体験して生きていくだろう。
だけど、不思議とその中にいると、不思議の意味を考える前に時間が経って、その場が流れていく。過ぎゆく時の中に不思議が埋もれていく。だから、さっき不思議に思っていたことが、いつの間にか不思議ではなくなる。
でも、だいたいの場合は巡り巡って、その不思議はまたやってくるのだけれど。それはその時また考えればいい。対峙しているうちに不思議は向こうの方から消えていくことが多いのだから。
「あれ? スフレのチーズケーキ、ホールで買ってきたのかい?」
「うん。明日の朝も食べれるじゃない?」
僕の誕生日だということを忘れている。これもまた妻の頭の中の不思議だ。
「良い一年になるといいね!」
妻の一言にそれは新年のご挨拶。誕生日に使うのは不思議だな。と、思って仕方なくなるのだ。
誕生日が終わり、次の日を迎えると昨日の不思議はもうなくなっていた。
―完―
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