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言霊を操る話

よく子供の夏休みの課題で行われる「言霊実験」を皆さんはどう感じているだろうか。

炊いたご飯を消毒をしたガラスの容器に入れ、一方はいい言葉を晒し、もう一方は悪い言葉を晒し、一ヶ月ほど放置するという実験だ。悪い言葉に晒されたご飯は汚く腐り、いい言葉に晒されたご飯は傷まずただ古くなるか、あるいはいい状態に発酵する。というのが概ねの実験結果だ。

しかし、いい言葉も悪い言葉も「正義」とどこか似ていて、その人の価値観によって変わってくるものなんじゃないかと思っている。そういう意味で ”いい言葉” に晒されたご飯が腐らないというのは、「そうであって欲しい」という実験者の意図を少なからず感じてしまうのだ。

言霊とは、いいとか悪いとかではなくその言葉に込められたエネルギーそのものだと私は感じている。もっと簡単に言えば込められた「気持ち」そのものだということだ。恐らく、そう言われると心当たりのある経験をされている方もいるのではないかと思う。

私は歌う時に気持ちを乗せる。
その気持ちとは、自分の気持ちというよりは誰かの気持ちを代弁しているような、その作品の中に生きている気持ちというか、そういう気持ちだ。そこに私情を挟む隙間はない。ただし、その気持ちは自分自身が味わい、既に私の血肉となっている「感情」だ。

2017年に私の15周年記念コンサートが開かれた時のことだ。
そのコンサートでは管楽器だけでなくバイオリンやビオラ、チェロなども加わり、ジャズ歌手のコンサートだというのにハープまで入るという豪華な編成だった。私はそこで「15周年なんだから好き放題やらせてもらうんだーい!」という気持ちで、ジャズに拘らず大好きな歌ばかりを歌うというテーマでチューンリストを作成した。人生で一度はやってみたかった ”ミュージカルナンバーばかりを歌う” という欲を大いに満たした。

その演目の中に『レ・ミゼラブル』の挿入歌 ”I dream a dream” が入っていた。作中の登場人物ファンティーヌ。貧しくて育てきれない稚娘を里親に出し、娘に送る仕送りのために身を粉にして働けど一向に貧しさは変わらず、更には仕事を失い、娘への仕送りのために自分の髪を売り、歯を売り、ついに体を売ることしかできなくなった彼女が、幸せだった過去を思い、その頃思い描いていた未来、そして果たされることのない擦り切れた夢を歌った曲だ。

この曲の歌詞は本当に切ない。

それまでに時折歌ってきた歌だった。これを弦編成で歌ったらどんな仕上がりになるだろう? 私は本番に向けてこの曲を歌い込んだ。純粋無垢な恋は、時に愚かな結末へと自分を導いてしまう。フォンティーヌのような人生とは無縁だったけれど、私はフォンティーヌの気持ちを語る者として、なんの濁りもない透明な気持ちでそれを歌った。

するとどうだろう。
今までずっと自分を幸運の持ち主と疑わなった私が、些細な不幸に見舞われることが多くなった。乗っていた電車が人身事故に合う、食べたいパンはタイミング悪く売り切れ、得意のじゃんけんに永遠に勝てない等の特に言い立てるほどでもないような小さな不幸が私の周りを取り囲んでいくのだ。それは地味にストレスであった。このコンサートで存分に歌い切り、それ以来仕事でこの曲を歌うことはない。

つい昨日のライブでもそうだった。

ここのところ、”その日あった感謝したい出来事” を日記のように書き記していて、あることに気がついた。私は数々の大きな感謝を感じる出来事に毎日出合っているということに。そして新年が明け、私は古い友人らとスキーに出掛けた。そして、その出先で転倒し膝の靭帯を損傷するというアクシデントに見舞われた。足一本が不自由になるというその瞬間から、誰かの世話になりっぱなしの日々が始まった。

世間というのは本当に優しくて、車椅子に乗っていれば誰かが必ず手を差し伸べてくれる。私が怪我をしたその日も10人の仲間が私をサポートしてくれ、レスキューの人達が手を尽くしてくれた。怪我をしてから今に至るまで、これまで書き記してきた ”感謝” もまぁまぁ大きいと思っていたけれど、それとは比べ物にならないくらい大きな感謝が私を包んでいる。日々の感謝を綴っていたら、これまでにないくらいの規模の新春大感謝祭が絶賛開催! となってしまったのだ。

これが言霊の効果かどうかはわからないが、なんかしら関連しているような気がしている。でも意味はわからない。全然わからない。本当にこれでもかってくらい毎日毎日誰かの優しさに支えられて生きているということを実感して、感謝しか出来ない私はひょっとしてゴミなんじゃないかと思えるくらいだ。

そう。それで昨日のライブで、お客様から ”Smile” という曲をリクエストされたのだ。「恐怖や悲しみを乗り越えて微笑めば、きっと明日には太陽が輝くよ」「涙がこぼれそうになっても喜びで顔を照らし、悲しみの跡をすべて隠して微笑もう」「今が頑張り続ける時だよ」「人生にはまだ捨てたもんじゃないってわかるよ」「微笑んでいればね」こんな言葉が綴られた歌に、自然と気持ちが入っていく。

まるで自分のために注がれる言葉のようだった。会場の空気がしっとりする。伝わったと確信した。

「言霊が乗った」と言い切れるこの感覚。
私はこのために歌っているんだなという納得。

言霊とは、そういう性質のものだと思うのだ。
だからといって、言霊を扱うのには特別な能力が必要なわけではない。

例えば、落ち込む友人を見てどう言葉をかけたらいいかわからない時。恋の告白をされて、どう答えていいかわからない時。図らずも自分のせいで感情を昂らせてしまった人に対して言葉をかける時。どんな言葉を相手に伝えたらいいのだろうと思案するのだとしたら、私なら正直な気持ちを言葉にする。正直な気持ちを乗せた言葉は、どんなに取り繕った言葉より心に直接刺さっていくはずだ。傷つけたいという気持ちや仕返しをしたいという気持ちは脇に置いて、ただ愛情と思いやりを持って紡いだ率直な言葉は、不思議なくらい軋轢を生まないものだ。ちなみに私の経験上、人は本当のことを言うと怒り出すので注意が必要だ。(ハゲにハゲと言うと大変なことになるように)

どうしても言葉にならない時は、それはまだ言葉にするタイミングではないということ。言葉にならないのなら、言葉にしない。その気持ちは言葉という形を取る段階にないのだから。

実は人は言葉に乗せられた感情に敏感なのだと私は思う。
いくら美辞麗句を並べていても、本心では「許せない」と思ってる人からの言葉は嬉しくない。そこに抱く違和感をこじらせてしまって、人は揉めてしまうのかもしれない。もし言霊を操りたいのではれば、正直な言葉ではなく、正直な気持ちを乗せた言葉を発するべきなんだろう。

それが私の経験した、そして考える「言霊」である。

#膝靭帯損傷の後
#松葉杖をついて自宅で転倒
#肋骨もやる
#でもライブはちゃんと出来ました
#肋骨やっても歌えるお


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