「生きる」「ただ在る」こと、それに気付くことこそが、あなたに唯一、一番おおきなこと

あなたは、「生きる」「生きている」「在る」ということ、

その意味を、ご存知ですか?

今の時代、いろいろな人から口癖のように聞こえてくることがあります

私はただ生きているだけ、
生きることしかしていない(できていない)、
生きなければ、
生きたいんだ、
今、私は生きているのだろうか

…みんな、いろいろな意味で、「生」「在」という言葉を使っている。

しかし、どうやら、この意味を、その時々で自分でも違う意味で使っていること、そもそもどのような意味でこの言葉が自分の心や口から出てきているのか、
…ここからして、わからなくなっている人も多いように感じる。
わからないからこそ、心や口から、それに気付いて欲しいというように出てくるのだ。


もちろん、言葉というのは、たった一語に本当にいろいろな解釈をすることもできるしどこまでも深い意味を含ませることもできる(伝わるかどうかは別として)。
そして、禅問答のつもりではないが、
言葉というものはそれと同時に、非常に狭義のもの、ごく僅かな一面しか表すことができないものである。


それゆえ、これももちろん私の言葉の使い方であるのだが、


「生きる」「ただ在る」ということほど、尊いことはない。
「生きる」「ただ在る」ということこそ、人間の意識の本当にすべきことであり、これさえしていれば、これさえできれば、本当にありのままで宇宙と繋がり、同時に意識の社会とも繋がり、ありのままでただ生きているだけで、あなたの持っているものがどんどん発揮され、あなた自身も(不思議に思うかもしれないが)生きやすい心地良い形でどんどん豊かに満たされてゆく。

これさえできれば、これこそが、真(芯)の意味での、私は「心身の健康」であると感じる。

現代日本(少なくとも)において、ひとは、「私は生きるだけで精いっぱいだ」「呼吸しかしていない」「生きて稼いでいるだけ」などと口癖のように言うが、
この時点で、既に「生きる」以上のことをやたらめったら、既に何か押し付けられるように駆り立てられているように、あなた自身ですら気付いていないのだが、もう詰め込まれたようにやっているのだ。
やりすぎなのだ。がんばりすぎなのだ。

あくまで、「働かなくて良い」とかいう意味のことを言っているわけではない。ただ在ってぼーっとしていろと言っていることとは、全く違う。
この違いは非常にわかりづらいかもしれない。
なぜなら、現代日本人は、もう既に「ただ生きる」ということをちゃんとできないほどに、ないがしろにしているほどに、前提的に余計なものを詰め込みいわば「生きる」以外のことばかりで自分を埋め尽くすようにしてしまってきているから。だから、あなた自身がもう、気付いていないから。
それでいながら、あなた自身、「いっぱいいっぱい」を感じている。
当たり前なのだ。
「呼吸しかしていない」ほどの”つもり”になってしまって、世の中で何もしていない、できていない、”つもり”になってしまって、それでいながら「何かしたい」「何かしなければ」に圧し潰され、それで実はおおもとの「呼吸すること」がいつの間にかないがしろになって、しかしそれにすら気付く暇もなく、あらゆる余計なことを自分に押し付け押し込みぎゅうぎゅう詰めになってしまっている。

普段の仕事で忙しくて息つく暇もないんだ、しかしそれは身体をまず生かすことではないか呼吸するためのものではないか、ちゃんと「生きる」ということではないか、と、反論が来るかもしれない。
いや、それはその通りだ。あなたが今人生の時間を必死でそれに回している仕事は、もちろんあなたを生かすためのものだ。私はそれを「余計なこと」とは一言も言っていない。
では私が何のことを言っているのか、この違い、非常にわかりづらいかもしれない。
先程書いた通り、当たり前なのだ。
もう、それに気付くことも非常に難しい時代、世の中の文化背景になっている。そんな中で、こんなところのごく僅かな文章で語弊なく伝えることは、とてつもなく難しい。
しかしその中でも、恐らくただ表面的な反論だけでなく、心の奥底で、もしくは身体で「何となく、わからないけれど何か何となくわかるような感覚がする」というひとたちも、いるのではないだろうか。
そう、私はそのあなたの体感が反応していること、あなたの体感は実は元々知っていること、それが現代社会の中で埋め込まれた”認識”によってフタをされて身動きとれなくなってしまっているがそれでも知っているから反応する、そのことを言っている。

これ以上書くことが、その体感に何となく共感し近づいていくことに繋がるのか、それとも語弊を膨らませることに近づくのか、それはわからないが。

あくまでこの場においては言葉を使うしかない。
そして、言葉は非常に狭義で一面しか表すことができない。
しかも現代特有の埋め込まれた”認識”というフィルターで、私の言葉は更に狭義に受け取られ解釈されるだろう。

しかし、ヒトだけでなく、生きとし生けるもの、動物たちはみんな知っていることなのだ。
動物たちだって「働いて」いる。
生きるために、ある意味では(本当にある意味では)よほどヒトの社会よりも心身ともに命の瀬戸際で心身魂全て使い果たしながら日々やるべきことを果たしながら生き抜いているともいえるかもしれない。

確かに動物たちとヒト社会では、働き方は違うし食べ物や住居を得る手段も違う。が、私は別にその違いのことを言っているわけでもない。
(いや、一応加えておくと、「働き方」が問題な”場合は”ある。つまり食い物を得るどころかブラック企業などに食い物にされているような人の場合は、そこから抜けるなどのような必要はあるかもしれない。)

ただ、これはもう言葉で、しかも不特定多数の人に一斉に伝えるような言葉で伝えることができるようなものではない。

しかし、今の世の中、
「最低限、生きているだけ」
「生きねば」「生きたい」
「生きるだけで何もしていない」
「人生、何かせねば」
などなどと心や口に浮かぶことのある人たちに、どこまで伝わるかはわからないが伝えたい。

現代社会、そう”思わされる”ように何やら矛盾した認識がどんどん埋め込まれているが、
あなたは、
既に生きている。
充分、立派に生きている上に、それ以上に大量の、やらなくてもいいことを、自分で気付かない内にタスクとして自分の中に溜め込んで、そのタスクやあなた自身には実は必要のない情報で「あなたの生」というタンクがぎゅう詰めで根詰まりを起こしている。それでは中も整理できなければ蛇口をひねっても何も出てこないし空気を入れようと思っても空気すら入らない。
「だけ、だけ」という、あなたは、既にがんばりすぎている。
「生きているだけ」といいながら、生きる以上のことを、あまりにもたくさんこなしすぎている。
あなたは自分で知らない内に、今この瞬間も、「何もしていない」と思い込みながら、既にやり過ぎと言うほど、しかも今のあなたはやる必要のないことを、あまりに果たそう果たそうとからまわっている。

これは今はわからないかもしれない。
しかし、もし望まれるなら、私にお声を掛けて欲しい。
知らぬ内に全自動で当たり前のように必要ない仕事まで何十倍何千倍も自分が今この瞬間もやっているのだと知ったら、やめていきたいのではないだろうか。
そして本当に自分にとって必要なことを大事にして、それでいながら今まで「何もしていない、できていない」と思っていたことが嘘のように、楽にどんどん自分の中から能力や個性やホスピタリティが社会に向けて発揮されて、別に意識もしないのに補い合い支え合いながら自分もどんどん発展していくようになる。それに断然、そちらの方が、「生きている」と感じることでもあるだろう。
それでいて、もちろん私がこの記事の最初から言っている「ただ生きる、ただ在る」というだけのことが、本当にできるし、わかるのだ。
断然、そちらの方が良いのではないだろうか。
だから、もし望まれるなら、私にお声を掛けてみて欲しい。
一緒に気付いていこう。

動物たちは、
「自分は生きて呼吸して日向でごろごろしているだけだ」
「自分は世界に、宇宙に何か貢献しなければならないのではないだろうか」
「社会と、宇宙とウィンウィンになるには、どうしたらいいのだろう、何をしたらいいのだろうか」
「自分は、~もしたい、~もしたい」
などと、考えるだろうか?

…こんなことを考えるのは、ヒトだけである。
しかも、語弊を恐れず言ってしまえば「現代人」だけである。
そう思うよう、埋め込まれ、そう思わされてきているから。

しかし同時に、これによって逆に、ヒトは建設的に物を考えているように見せかけて、実は真逆のことが起きている。
実は、そのおかげで差別格差が発生し人と自分が対等にいることができなくなり、
更には自分自身にも実はどんどんフタをして、社会で貢献したい、しなければと思っているのに、それ自体がどんどん社会で貢献できる自分、しなければと思う自分にフタをして、その道をひたすら閉ざしては自分の首を絞めるという事態になっている。

この説明はわかりづらいかもしれないが、
動物たちは、一切そんなことを考えないが、
実は、動物たちは一頭一頭、一匹一匹、一羽一羽、みんな、宇宙に100%のパフォーマンスを発揮している。
いわゆる”スピリチュアル”の話をしたいわけでもないししているわけではないが、少しだけ付け加えると、動物が家族の一員であったことがある人には、もしかしたら感じたこと…体験、経験、共感があるかもしれない。
ひとの家庭に来る(派遣される)動物というのは、その家庭(ひと、人々)に、本当に必要な最善のタイミングで来て、そして本当に意味のある必要な最善のタイミングで、去っていく。必ず、100%のパフォーマンスを発揮して、宇宙から与えられた仕事を100%果たして、お返しし、帰っていくのだ。
動物と共に暮らしたことのあるひとは、ご存知ではないだろうか。どんなに少なくともここには気付かれるのではないだろうか。動物が、ひとに対してどれほどその命100%を賭して、どれほど計り知れない仕事を果たして、どれほど計り知れない学びと宝物を与えてくれることか。
…そして、彼らの「意識」には、そんなこと、一切わざと考えても思ってもいないこと。


「いのち」というのは、そう、「ただ在る」というだけで、「ただ在る」「生きているだけ」ということでこそ、最大のパフォーマンスを発揮することができる。
それ「だからこそ」全てが宇宙の中で宇宙の一部として、最大でありかつそれが最善最大に周り(社会・宇宙)全体にも作用する能力・働きが、そのままそれだけであるがままいつの間にか、発揮されるのである。

ひとは、そこに、ここで私は催眠療法士でもあるのでついこういう言葉を使いがちになってしまうわけだが、「顕在意識」で、歯止めをかけ、邪魔をしてしまう。身体と心がありのまま、あるがまま、勝手に100%発揮されるところを、邪魔してしまう。そして、邪魔してしまう、ように、現代社会において、どんどんそのようになっている。
ここはもういくらでもあらゆる角度から説明できるのだが、この記事では割愛する。
そして、更に、この現代社会においては特に、この顕在意識で、どんどん自分の身体と心のレジリエンス(回復力・自己治癒力)にも、歯止めをかけ、外側へ対するパフォーマンス(実は=自己に対するパフォーマンスでもあるのだが)も、自分自身に対するパフォーマンスも、自分自身の内側・奥底から出てくるパフォーマンスをどんどんどんどんフタをして閉じ込めては、下げてしまう、そうなるように仕組まれてしまっているかのような世の中になっている。
そして、それにも気付くことすらできないように、そこに気付く能力(体感)すらだんだん麻痺して、今既に現代日本人の多くが、いわば疑似的に作り上げた五感…着ぐるみを着て、その着ぐるみの五感を使っているかのような、そんな状態になっている。この五感(体感)が、自分の本当の感覚だといつの間にか思い込まされ、思い込んでしまっているのだ。

あなたにも、当然ながら、あなた自身の本来の、本当の感覚(五感)がある。
これが、いつの間にか、外側のいわば他者の感覚・着ぐるみの感覚・鎧を通した感覚などをご自身の五感と入れ替わって感じているとしたら、「生きている」と、うまく感じることができなかったり、ご自分の人生に違和感や納得できない思いを感じていたりしても全く無理のないことではないだろうか。
そして、ご自身の人生を取り戻したいと、思われるのではないだろうか。

ちなみにもうひとつお話すると、私はクライアントさんに良く、顕在意識と潜在意識の関係性や特性を説明する時に、「意識領域」を、(物理社会における)「目の見えない人」に例えて説明することが多い。これは私自身が視覚が弱いことで発見し、わかりやすいと好評の例えなのだが、これが意識領域の生き方、あらゆることを説明するのに、悉くこの例えでうまく当てはまる。
さて、少し端折りながら話を出したいが、意識領域というのは、例えるならば目の見えない人と同じである。
物理社会における目の見えない人は、周りの様子がわからないし周りの世界が「見えていない」が、ひとの意識領域というのも、生きている環境「人生」は、見えていないのである。
人生が、例えば、長い階段であったとする。
目の見えている人は、大抵目の前、正面(行く先)を見ながら階段を上っていくかもしれない(実は、意識しないくらい当たり前に、足元も見てはいるのだが)。
しかし、目の見えない人は、階段を上ろうとした時、いくら正面を見たところで、階段を上ることはできない。目の見えない人が階段を上るために必要な情報は、白杖でまず自分の足元(土台)を確かめることである。そして、0段目と1段目の壁にまず杖をぶち当ててみて、段の始まりの位置や段の高さや次の段の足を置く場所(そしてそこがどんな地面か、何があるかなど)を確認することである。
「生きる」「ただ在る」ということは、これに似ている。足元、とも表現できるものだ。
階段を10段20段目まで上がりたかったとしても、最初から10段目20段目を見てもそこを上ろうとしても、決して上ることはできないし、足元で突っかかって転ぶだけである。しかし、足元を確認している瞬間を重ねることで、いつの間にか10段目20段目まで上っている。逆も言うと、足元を確認している瞬間さえちゃんと重ねていれば何十段目であろうが上ることができるが、これがないと、白杖の使い方を知らなかったりしたら、1段目さえ上ることはできない。
そしてそれと同時に、10段目20段目まで上っていても目の見えない人は後ろも前も見えない。ただただ足元を確認しながら今ここ今ここを進めているだけなので、自分がもう10段目20段目にいることにも気付いていないかもしれない。実は、既に10段目20段目にいるかもしれないのだ。しかもそれなのに、「10段目20段目にあがらねば」と思って空回りしているかもしれないのだ。
ついでに、これは目の見えない人にも見える人にもいえることだと思うが、階段を上るためには、まず、立っているということができる身体が必要になる。片足を上げて重心を変えても大丈夫な骨格や筋力やバランス感覚がまず必要だ。
そして、これさえあれば何十段目まで上っても「段を上がる」ことができるが、これがなければ、1段目すら上ることができない。それでも目が見えているフリをして10段目20段目ばかり見ていたら、何だか良くわからない状態を感じて当然である。
しかし、目の見えない人(ひとの意識領域)は、自分ひとりでは、大抵その時その場で自分のいる場所はなかなかわからないものである(そのためにその場所の両極まで少しずつ足を運んでみて空間をやっと把握して、自分はあそこにいたのか、と判断することはできるが)。
特に現代のひとたちは、もういっぱいいっぱいで、自分がどこにいるのか、わからなくなっていて、それなのになぜか「わかっていなければならない」とつい当たり前のように無自覚に思ってしまっていて(私も白杖を使い始めた当初はそうだったし、今でもそういう時があるが)、わからなくなっていることにすら気付けなくなっている人が非常に多い。
自分がどこに向かいたいのか、何をしようとしているのかさえ、わからなくなってしまっているひとすら、どんどん増えている。

また、もうひとつだけ別の角度から。
昔の人たちは、どんなに少なくとも、どうやら、今ほど「生きているのに生きていることが自分でわからない」「がんばっているのに何だかよくわからない」ような感覚は持っていなかった。
これまたいずれまた別の記事に回した方が良いと思うので、つまりそれだけ、このことだけでも深く長くなるので、ここでは割愛するが、どうやら昔と現代の大きな決定的な違いのひとつは、「目的認識」が散漫になっている、混乱させられている。
極力短く言うと、そしてその分語弊を恐れぬ言葉遣いにはなってしまうかもしれないが、どんなに少なくとも、今の人たちのほとんどは「生きている」「がんばっている」の言葉の意味を、自分自身でわかって使っているつもりでわかっていない場合が多い。
そうでなくとも現代は故事や四字熟語、諺など、とてつもなく深いことを諭してくれている格言を理解できなくなってもきている。これも近日記事にしようと考えているが、これもどうやらただ教育の中でやっているかどうかだけの理由ではない。言葉というものが、非常に表面だけでしかだんだんと捉えられない時代になってきている(これだけ言うと安直に聞こえるかもしれないが、この話に焦点を当てると今回の記事と同じ程度に長くなるくらいにはその考えられる理由がある)。そんな中で、「生きる」「がんばる」という言葉も、実際にその言葉があからさまに表面化していたはずの戦時中などよりも、恐らく今の方がたくさん使われている。
その代わり、使っている本人たちが、その意味がいつの間にかわからず、それがわかっていないことにも気付けない程に麻痺しているため、「生きているのに何か生きていることがよくわからない(体感)」「がんばっているのに、なぜかがんばれていない、なぜかがんばっていることがわからない、何だかとにかくよくわからない」と矛盾するような現象が彼らの中でもやもやと起こっている。

アルコール依存などで考えるとわかりやすいのだが、アルコールは、摂取すると、脳の中にある物質(脳の分泌物の一部分を例えにすると)である、GABA(鎮静作用)の働きを強め、グルタミン酸(興奮作用)を弱める。しかしひとには本来、体内の物質を正常に戻そうとする回復力(自己治癒力)があるため、あまりに酒を飲み過ぎる(GABAを強めグルタミンを弱めようとする力を余分にかける)と、体内でおかしなことが起こっている、なにくそ、と、脳は正常に戻そうとしてグルタミン酸を強める。
しかしあまりこの攻防があると、酒を飲んでいない時間帯にも脳が反動でグルタミン酸ばかり強めるようになってしまい、GABAが欲しくなって酒にまた手を伸ばし、アルコール依存がどんどん完成していくことになる。
つまり、元々「在るがまま」で良かったのに、余計なことをしてしまうせいで過剰反応に繋がり、逆に余計なものだらけにして自分を固めないといられなくなってしまう(しかしどんどん苦しくなっていく)という構図になっていくのだ。そして、こうなった患者は、そもそも脳の自然な反応(自然治癒力)がゆえにこんなことになってしまっているので、治療が非常に難航することになるのである。
そして、ついでに言うと現代、免疫(人間に元々備わっている自然治癒力の一種)系の過剰反応による原因不明の難病も増えている。この背景にも、これらのこと(少なくともこの記事で最初から書いていること全て)が関わっているのではないだろうかと思えてならない。

つまり、「生きて」もいるし、「がんばって」もいるのだ。なのだが、もし無理やり表現するならば、いわばこれをちゃんと自分自身で感じる力、とでもいうような部分、これが何かによって麻痺するようになってきてしまい、過剰に生き、過剰にがんばったり、逆に過剰に生きることをやめようとしたり、過剰にがんばれなくなったり(うつなど)、という現象が起こる。
これはそもそも、もう「生きる生きない」「がんばるがんばらない」が問題ではないのだ。
そして、現代人の特徴としてもうひとつ、「生きる」ということの定義(意味)がわかっていないと同時に、「がんばるがんばらない」に対して、「何に/何を」頑張っている/頑張る、のか、の定義も、いつの間にかわからなくなっている。しかしわからないから「とりあえずがんばる」という、わけのわからない、結局何が起こるのかもわからない現象が発生しているのではないか。これでは頑張れるわけも生きることができるわけもない。いや、既に頑張っても生きてもいるのだが。という、非常に言葉で説明しようとすると矛盾に満ちたことが起こっているのが、現代社会である。
しかしひとつだけ言えるのは…やはり、定義認識もしっかりとある中で「生きる」「がんばる」ということが過不足なくできているひとは、足元を感じている、土台を感じ、寧ろ、先程の白杖の例でいえば、足元の状態をしっかりと白杖で把握するということだけをしていることで、いつの間にか進んでいる、ということが起きている。ある意味、「がんばっている自分が自覚はされながらも、あまりがんばっている感覚はないかもしれない、いずれにせよ心地良さと共に在る」
格言的に言うならば、「地に足がついている」状態である。

老子の言葉にも、こんなものがある。
「自分自身へのこだわりがなくなったときに、はじめて本当の自分になれるのだ」
(この言葉も非常に深いが、ちなみに、私のグループセッションやグループワークを何回か重ねて受けた私のクライアントさん何名か、ゆっくりと体感でこの言葉の意味をとらえつつある)

では、「生きる」以上に何十倍何千倍も労力を削いでしまって疲弊してしまってもいつの間にかやってしまっている「余分なこと」とは、一体何なのだろうか。
「がんばる」というのは、一体何をがんばるのか。
「生きる」「がんばる」の定義とは一体なんなのか。
「ただ生きる、ただ在る」状態でいる(いつの間にかどんどん自分のパフォーマンスを発揮されていく体験の)ためには、一見矛盾した言い方にはなるのだが、一体どうしたらいいのだろうか。
「足元」を確認する、には、どうしたらいいのか。
いやそもそも「足元」とはなんなのか。
「白杖の使い方」は、どうやったらいいのか。


…これらは、外部から何か入れられるものではない。
外部にできることがあるとしたら、目の見えない人が他者の手引きによって自分の位置を知ったり方向修正したり、より安全な階段の情報を得たり上り方に気付いたりすることができるように、他者と共に生き、寄り添ってもらうこと、くらいだ。
現代の人たちは特に、自分自身の目の前の階段についてですら、もうあることないことあらゆる情報が入り過ぎて、その情報の嵐ゆえに自分がいろいろ動いているかのように感じながらも、実際は身動きとれなくなっている。

そして、それと同時に、白杖の使い方は、実は案外(物理社会の本当の白杖も)人それぞれである。というのも、地面の効果的な探り方や使い方自体はあるが、その上で自分が使って行った時、より地面の情報を自分が知りやすい、気付きやすい方法というのは、自分で見つけていくからだ。
実は、「白杖の使い方」は、あなたの埋もれた「体感」が知っている。そして、「足元、が何か、その知り方」や、「ただ在る」とはどういうことか、どうしたら良いのかも、あなたの体感が知っている。
あなたの人生だからだ。あなたの人生のことは、実はどこまでもあなたの体感(潜在意識・身体)が知っている。
しかし、現代の多くのひとは、その自分自身(顕在意識)と、自分自身(体感・身体・潜在意識)の間にひたすら多くの障害物をぎゅう詰めに詰め込み、自分自身と自分自身を引き離してしまっているような状態になっている。

…であるからして、更にいろいろな他者のものを入れろというと矛盾になる。でき得れば、逆にその自分自身と自分自身の間にぎゅう詰めにして隔ててしまっている不純物を、取り除いていくことをしたいのだから。

だが、慣れた場所であるのが当たり前の場所にある物には目が見えていても気付かないのと同じように、既に当たり前のように入ってしまっている認識や情報は、取り除くことは困難である。

どんなに少なくとも、であるが、私は、その上であるからこそ、ただ、「その人に必要な手引き」ができるように、連れて行くのではなく寄り添うこと、
そして、取り除くことは確かに困難であるが、しかしあなたの人生にそぐう、邪魔にならない、寧ろ「あなたの人生」にとって手助けになるものに置き換える(というよりあなたが自分で置き換えるその手伝いと手引きをする)、
そして先ほどのGABAとグルタミン酸の例えで出てきたような、自然に発揮されるべき力がいつの間にか矛盾したような行き違い・自分で自分に余計なお世話ばかりしながら通常発揮されるべき力が空回りして労力ばかり削がれていき、自分の中で閉じ込められながら溜まりに溜まっているエネルギーを正常(本来の状態)に戻し外に自然と流れるようにしていく(ちなみに体の中でこれが起こっている人は、外側に対しての扱いもそうなっている、自分にも他人にもなぜか余計なお世話ばかりになってしまい苦しい…など)、
そしてとにかくあなた自身があなた自身の体感と出会う、あなた自身があなた自身としっかりと手を取って重なることができるよう、
自分の白杖でしっかりと地面を確かめて「地に足をつけながら同時に宇宙へ突き抜けて」堂々と歩んでいけるよう、それまでもその後も必要な時にお互いただ支え合い補い合い続けていく、それだけ
そんなスタンスに身を置いている。

入れるのではなく、あなたの中から、あなた自身がもう見つけられなくなってしまっている中から、「あなた」の人生の取扱説明書を見つけていく、というイメージにも近いだろうか。

あなた自身のパフォーマンスを取り戻していく、その手伝いをする。


違和感を持たれている方は、一度、手引き者を考えてはどうだろうか。
しかしながら、どれが、「外から入れることになるのか」わからない。
そんな中、どんなに少なくとも、私はここまでのことを前提とした上で、活動をしている、ということだけは、表明できる。

もし、あなたが何か息苦しい気がしているなら、
もし、あなたがどうもしたくないのにどうしたら良いかと浮かんでしまうのなら、
ご相談ください。
お声がけくだされば、何かのお役に立てるかと思います。
そして何より恐らくそのために私は今、「いつの間にか」この活動をし、意識ではただただ土台、足元を確認するだけの一瞬一瞬の中で、「いつの間にか」この記事が出来上がっていくことを感じているのですから。


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