私がいろいろな人と桜を見に行く理由―白杖使用者の日常

私は、実は、もともと花見にあまり興味はなかった。
と、いうのも、今から考えると恐らく、今までは「見えているフリ・見えているつもり」であるだけで、視覚情報を視覚情報として認識できているわけではなかったからだと思う。
その場の雰囲気に乗ることはできても、結局あまりよくわかっていない。
その上、視覚情報が視覚情報として記憶に残らない。
しかも、「見えている(はずの)こと」を気を張って演じてそちらにばかり意識を向けていることになる。
なので、あまり興味はなかった。
いや、そもそも行く相手もいなかったのだが。

それが、私が明らかに視覚障害者としての工夫で生活するようになってから、花見はひとつの「行事」となりつつある。

実はこの記事を書いて投稿するまで少し温めていた時期に、またあるかたと花見をご一緒させていただいた。その時にまさにこの話になり、「どうして花見、行くの?桜、見えてるの?」と、まさに不思議がられたのだった。

まず何より、単独歩行では景色で季節を感じる機会がまるでないのだが、どなたかと…特に気心知れて来ると、歩きながら道端の花の存在など言葉にして伝えてくださるときがある。
桜見にしても美しい景色を見に行くにしても、今の私は好んでいる。

どなたかと行くと、また、それもいろいろな人とご一緒できると、その人それぞれの「目」つまり見え方、言葉、感想が出てくる。
たとえ同じ桜を見たとしても、そのかたの感想、表現で、私も幾通りもの楽しみ方をすることができるのだ。
となりの人の目を通して景色や季節を感じることができることは、今の私にとって、本当に大きく嬉しい。
そのかたが喜びや感動をあらわにされていれば尚更、どんなものがどんなふうに(あなたの目と心には)見えているのですかと会話で掘り下げ、その喜び、感動、心のうちも共有させていただくことができる。その景色(ヒトはみな、心象風景で物を見ている)を一緒に楽しむことができる。

余談も付け加えると、この時に、私が”視えている”情報、例えば香りや体感覚、音などを伝えることがある。すると、晴眼のかたには気付いていない情報が案外良くある。それも共有することができる。
ついでにもって私は単独歩行時はあまり長距離を歩くことができないが、こうして一緒に景色を見るための散歩をすることで、「歩く」ことができるということも、私にとっては貴重な機会だ。

そして、大抵、携帯電話で撮影をしてみる。同時に、気心知れたかたであれば、その花や風景を撮影していただく。
撮影するのは、私の場合は翌朝などに僅か隙間の視界で雰囲気だけ感じることもあるが、そうでなくとも、私の機械が私の目の代わりとして、代わりに記憶していてくれるような、そんな気がする。
更に、”そのかた”のセンスで風景の写真を撮っていただくと、そのかたの描いてくれた風景画かもしくはサインでもいただいたような、温かく光栄な思い出ができる。

更に、他、もしも後日別のいろいろな人にこの写真を見てもらうことができれば、その人たちの反応、感想、その人たちの心的表象の景色も感じることができる。
もちろん、その場で私自身の五感でも触ったり香ったり聞いたりできると、もっともっと楽しいけれども。
恐らく晴眼のかたがたも花見をしてその後、雰囲気や視覚情報を思い出すことができるのと似たように、その時の空気の感覚や香り、音などは、案外、思い出として覚えている。

特に都心では、季節を感じる術は気温と湿度の他はやはり植物や景色。その辺の店の季節もの商品ですら、ひとりで街を歩いても気付くことはできないので。
だから、どなたかと歩いて、そのかたの反応や感想や雰囲気、更にいただける場合は実況してくださる言葉、などで、季節を感じることができる機会は、私にとっては貴重で非常に嬉しいものである。

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