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ぬか床が世界なら、きゅうりとしての我

「3人よれば文殊の知恵」ということで、80年代生まれ魔女っ子ブームの薫陶をうけてすくすくと育ったレディ3人(わたしコットン、コニタン、キムキム)があーでもない、こーでもないと語るラジオごっこPodcast「まじかるらじかる発酵クラブ」を更新したよ。ぜひお耳に合いましたら。

今回はそれぞれの好きな発酵食品は?というテーマから、やがて福岡伸一さんの「動的平衡」に水平移動し、細胞の入れ物としての我、ズタ袋としての我、便宜上の我、自分と他人の境界って本当はないんじゃね??などなど、縦横無尽にしゃべったよ。

ここでは、podcastで話したことからこぼれた、思い出したことなど書いてみようと思います。

好きな発酵食品といえば、とんでもなくたくさんあるけど。わたしはやっぱりシンプルかつ王道の「きゅうりのぬか漬け」を挙げたい。居酒屋でメニューにあれば必ず頼みたいし、さらにナスでも白菜でもなく、きゅうりだとさらにうれしい。(ちなみに関西ではぬか漬けを「どぼ漬け」という。)

だってあなた、おうちできゅうりのぬか漬けをこしらえてみようとしてごらんなさいな。

ぬか床を毎日かき混ぜるのはいいとして、ぬか床は生き物なのだから、毎日なにかしら発酵のエサになるものを漬けておかないとぬかをいい状態に保てない。また旨味成分を出すには乳酸菌を増やす必要がある。唐辛子を入れたり、ゆずの皮をいれてみたりと様々な試行錯誤も要する。もちろん毎日何か野菜を漬けていることも必須である。

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ただ一本のきゅうりのぬか漬けを食べる。

そのためだけになんともたくさんの時間と労力がいることか。そうするうちに、やがて食べきれなかった漬物たちが冷蔵庫に集うことになってしまう。ぬか床育成前のどこかピントはずれな味のぬか漬けをせっせと食べる日々。「ぬか漬け天国」のはずが「ぬか漬け無限地獄」と化すのである。かくしてひとり暮らしにぬか床は、完全に宝の持ち腐れというもの。

だからこそぬか床を万事よい調子に保ち、自分好みのたった一本のきゅうりのぬか漬けを食べさせてくれるお店があるならば、ありがたく毎回注文するのは礼儀だしごく自然なこと。

ところでぬか漬けの中でもきゅうり、さらにいうと「きゅうりの古漬け」を好むわたしが古漬け愛好に拍車をかけたのは、京都の錦市場にある「錦・高倉屋」の古漬けに出会ってから。ぬか漬けよりは長く漬けるので必然的に塩辛くなりがちだけれど、それより酸味と旨味がバランスよく引き立っているここのお店の古漬けはわたしのなかの暫定ベスト古漬け…。

❒ 錦・高倉屋 https://takakuraya.jp/all-foods/nukazuke/

お酒と共にそのまま齧るのも良いけれど、刻んでお茶漬けにしたり、チャーハンに入れたり。酸味と旨味を活かしていろんな食べ方ができるのが古漬けの魅力のひとつ。

しかし、その古漬けを生み出していたのは、雑誌「ミーツ・リージョナル」で連載のコラムや著書『人生、行きがかりじょう』がある、お気に入りのコラムニスト・バッキー井上さんだと知ったときはすごくおどろいた。バッキーさんの経歴をまずご紹介。

画家、踊り子を経て、”ひとり電通”を目指す。37歳のとき、京都の錦市場で「錦・高倉屋」という漬物屋をはじめる。6年後、裏寺で、「百錬」という居酒屋も始めてしまう。雑誌『ミーツ・リージョナル』では創刊から約30年、300号を超える現在まで「百の扉、千の酒」を連載中。日本初にして日本唯一の酒場ライター。自称、スパイ・忍び・手練れ。


バッキー井上さんを知ったの京都に移住してからだから2013〜14年くらい。

京都はおろか関西の地理関係はもちろんわからないし、ガイドブックをみても観光や京料理の情報ばかりで、どうやってこの街を知ればいいのやら?と少し途方に暮れていた時、ふと手にとった関西ローカルタウン雑誌「Meets Regional」は衝撃的だった。

例えば東京だったら「オズマガジン」とか「hanako」の街特集とかが近いのかなぁ。モデルが街をめぐったりグルメや雑貨を紹介している記事が大半だけど、「Meets Regional」はその街の本屋の店員さんや、会社員、カレー屋店主などがメインで登場し、いきつけのBARや居酒屋を紹介してたり、最近みたライブの感想を語ったり、実際にそこで暮らし、働く人達が主役!という感じで生の生活や日常をレコメンドしているような紙面でわたしにはとてもフレッシュだった。

毎号すみからすみまで熟読することで本当に知りたかった関西の様子が少し知れた気がしてうれしかった。

そんな雑誌の一角で異彩を放っていたのがバッキー井上さんの連載コラム。何気ない日常や、酒場でのふとした出来事などをつれづれに書いてる風なんだけど、適当そうでいて、どのコラムも深淵な意味をはらんでいそうで、いなそうで。なんかこの人すごい!といつのまにか大好きなページになっていた。

そのバッキーさんがわたしのお気に入りの「ぬか漬け」を作っている「錦・高倉屋」を営んでるなんて。

大好きな漬物を作っているのが気に入りの酒場ライターだった…!なんて展開、きいたことありますか? ぬか漬けと酒場ライターが同一人物なんてこと、ありえちゃうの?

前述のバッキーさんの著書「人生、行きがかりじょう」に書かれ、彼が繰り返し言う【行きがかりじょう】とは一体全体どういう状態のことなのか。著書をちょっとみてみると…。

自分が選択をして、現れるものと向き合い、すべてポジティブに反応すること。シアワセになるための基本的な心構えであり、ゴキゲンへの道しるべであり、優れた戦法でもある。

「現れるものと向き合い、すべてポジティブに反応すること。」

これって…、なんか発酵のことみたい。

「ゴキゲンへの道しるべ」ってワードがいいね。ゴキゲンでありたい。

うまいものが食べられる店に行っても俺は何を食べたかいつも憶えていない。あまり眼中にない。うまいものより相棒や仲間とのそのときその場の「残念」こそ俺のご馳走だ。「残念」のない店はつまらない。    (「残念こそおれのご馳走。」p68より)

おいしいものを食べることが目的ではなく、居合わせた相手やその場と自分をコンデンスさせること。その中に「残念」がないとつまらないとバッキーさんはいう。

「人生、行きがかりじょう」っていうのは一見受動的な態度にみえるけど、「残念」すらも飲み込み、受け流していくのはかなりレジリエンスな禅の境地…。

たとえその場が上出来でなくとも、残念こそがおれのご馳走。

自分が暮らす世界や環境がぬか床だとしたら、自分はその懐にもぐる「一塊のきゅうり」として、出会うものに反応し、様々な物事に向き合う。その成れの果てにぬか漬けや、古漬けへの変化していければしめたもの。

「おいしいぬか漬けになれますように!」なんていうシャチホコばった目的意識はもはやいらないかもしれない。成すが儘でいい。しかしその言葉の意味するところを本当に理解するのはなかなか遥けき道程にも思える。

「ナスがママなら、キューリはパパだ。」(天才バカボン)

うん、わたしにはこのくらいがしっくりきそうだ。










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