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東インド

(6番)   2019年 11月
今年5回目のインドへ行ってきました。
東の方のナガランド州で「ホーンビル・フェスティバル」というお祭りがあって、数年前から行きたいとは思っていたのだけど、なかなか都合がつかずやっと実現しました。
長い間、ナガランド州への訪問はインド政府により厳しく制限されていました。
第二次大戦中に、かの有名なインパール作戦で日本軍が進駐して以降、学術調査団や慰霊団などほんの少数の外国人しかこの州を訪れる事はありませんでした。
 
「ナガ族」とはこのナガランド州周辺に住む方たちの総称です。現在16部族もの異なった「ナガ族」たちが今なお昔ながらの民俗風習を守って生活しています。
東の国境はミャンマーで、人々はモンゴロイドで日本人と同じ顔立ちをしています。
険峻な山奥という地理的要因と、首狩りの風習のある蛮族として恐れられ、隔絶されてきたナガランド。近代にはキリスト教が広まったため、インドの他地域とは全く異なる独自の文化・風習が残ります。
空港があるディマプールの市場では犬が生きたまま売られており、あの悟ったような目と表情は決して忘れることはできません。
 
1980年代を最後に彼らは首狩りを止めました。キリスト教が入って来たからです。
一人首を狩ると顔と胸に入れ墨を入れ、自分の首には真鍮製の人の首の形をしたネックレスをぶら下げます。3人殺せば、3個の顔がぶら下がるのです。
ホンプイ村というコニャック族が住む村では、今でもそういう人達が暮らしており、当時の民族衣装のままの恰好で我々を歓迎してくれます。我々と同じ格好は嫌で、頑なに昔の伝統を守っているのです。耳にはヤギの角が突き刺さっています。
王様がいる村もあって、我々にお茶やバナナをサービスしてくれました。
 
「ホーンビル・フェスティバル」は毎年12月に開催されます。
ホーンビルとはサイチョウのことで、昔はこの辺りにたくさん飛んでいたのに、今ではあまり見られず、南のアルナ―チャル州では見られるそう。
失われゆく伝統や風習、文化の保存を目的に始まったこの祭りは、ナガランド各地から16の民族が州都コヒマに集い、それぞれの衣装を身にまとって昔から伝わる踊りを披露します。祭りの会場となる広場の裏手には、各民族の伝統建築を再現した民家や青年宿「モロン」が建てられ、それぞれ輪になって歌と踊りに興じます。
踊りだけではなく、「ベアフット・ホップ」と言うジャンプをするパフォーマンス(戦争の時に役立つ)や火おこし(昔は実際に行っていた)や足の蹴りあい(これも戦争時に役立つ)や二人が脚を延ばして座り、その上で手をつなぎあい、押し合って立ち上がった方が負けというゲームなども披露していました。
 
会場のある州都のコヒマには英国軍のお墓がある三叉路があって、そこには方向を示す標識が立っており、向かって右側がインパールとあります。
出発前にインパール作戦についてのNHKのドキュメンタリーと、ついでに「ビルマの竪琴」の旧作と新作の両方を見て下勉強をしていきました。

インパール作戦は第二次世界大戦での最悪で愚かな作戦です。最初から無理だとわかっていて決行したからです。
団長であった牟田口中将の強引な戦略によって多くの日本人が犠牲になったが、それを止めさせなかった上層部にも責任があります。
3つの隊が主になってインパールを目指したものの、食料不足がたたり、第31師団の師団長の佐藤中将は軍の命令に反して独断で撤退を決めました。彼は帰国後逮捕されたが、生き残った兵士や家族達からは非常に感謝をされた人です。
ミャンマーへ引き返す道には「白骨街道」と呼ばれる道路があり、引き返す際、飢餓、マラリアや赤痢菌に侵されて亡くなった人の亡骸がそのまま残されていたそうです。戦う際に亡くなるよりも帰り道に亡くなった人の方が圧倒的に多かったのだとか。
 
お祭りの会場には「第二次世界大戦博物館」が併設されていて、入り口で放映されていたビデオを見たところ、「日本軍が食料を全部持って行ってしまった」と怒っているお婆ちゃんのインタビューをやっていました。これはイギリス軍が撮ったビデオだと思われます。
他で聞くとほとんどが日本軍の事を可哀想だと言っている人が多いからです。
中にはイギリス軍と日本軍についての説明やたくさんの写真が展示してありました。
 
佐藤中将が滞在していたキグウェマ村を散策していると、何とその時の生き証人の方と偶然お会いすることができました。
丁度、日曜日で教会からの帰りだったようでスーツ姿でした。
家に案内されてお話をいろいろと伺う事が出来ました。ずっと英語で説明をしてくれて、更に感激しました。
現在97歳で、佐藤中将を隣のコノマ村まで食料を探すために案内をする役として出掛けたそうです。当時は22歳だったとか。
と言うのもチャンドラー・ボーズから日本兵の面倒を見てやってくれと言われていたから。ご存知のように新宿中村屋の娘婿です。彼はインド独立の為に日本にしばらく滞在をして運動をしていました。
突然、「バリバリバリ!」という爆音と共に戦闘機が3機飛んでいくのが窓ガラス越しに見えました。戦争の話を聞いていた時だったので、「まさか、戦争でも始まるのか!」と一瞬思ったのだけど、どうもお祭りの会場で開会式が始まり、あれはパフォーマンスだったのだとか。「あ~びっくりしたなあ、もう・・・」
「軍事作戦力の欠如により」という言葉が何度も何度も出てきて当時の混乱の様子が目に浮かびました。
途中で奥さん(85歳)も出て来られて、佐藤中将は奥さんの実家に2か月滞在をしたそうです。その家も見に行き、当時のままの姿でこじんまりと建っていました。
お祭りを見に行ったのに、すっかり影が薄れてしまい、この方のお話は私にとっては宝物となりました。

道路が舗装されていないために、埃まみれで、くねくねとした山道で車は揺れるしで、「は~…」久しぶりに疲れました。
悪路の為に、わざわざアッサム地方を通り抜けて訪問をした村もあって、州境を越えた途端に茶畑が広がっているし、牛は歩いているし、人々は見慣れたインド人の顔をしているしで、あんなにハッキリと違いが分かるなんてまるで別の国に来たようでした。

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