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ブルガリアとルーマニア

(64番)   2011年  4月

ブルガリアとルーマニアへ行ってきました。
ひと昔前まで東欧と呼ばれていた国々で西欧とはどんな風に違うのか興味がありました。

前月に東北大震災が起きてからそれほど経っていなかったので、てっきり催行中止になるものとばかり思っていたら、その気配は全くなく出発しました。あっさりと・・・
今回の参加人数は16名でした。

因みに丁度その時に海外へ出ていた旅友達の中で、すぐには帰国できなかった人もいます。

今回のルート

1日目 4月4日
本当に行かれるのかと一抹の不安を抱えながら成田へ行くとちゃんと添乗員さんが受付をしていた。
いつもと違うのはセキュリティを通る際、放射能検査を受けた事。
手で持つタイプの機器で全身を調べられた。自分自身も大丈夫なのか心配だったので、逆に調べてもらえて有難かった。

✈ 11:30 発 成田: オーストリア航空

出発は約1時間遅れた。
食事と飲み物の提供ナシ。
日本の食べ物は放射能に汚染されている可能性があるので、成田では一切積み込んでいないのだそうだ。ペットボトルの水は大丈夫じゃないの?
ブツブツ・・・😥

  15:00 着 北京

✈ 16:00 発 北京: 同上
ガ~ン! 食事はカップ麺が1個のみ。
なるべく体に悪い物は摂らないようにしているから、自分は食べなかった。水分はペットボトルの水のみ。

  19:10 着 ウィーン
言うまでもなく、お腹が空きすぎてフラフラ・・・😵
まさか、ここまで酷いとは予想だにしなかったので、機内で何か食べる物を用意しておけば良かったと反省。

✈ 20:30 発 ウィーン:同上
  23:00 着 ソフィア(ブルガリアの首都)

🛏 ソフィア泊

国の説明
1908年にはブルガリア帝国(王政)が成立していたが、1944年にソ連の侵攻を受け、王政が廃止された。
1946年の国民投票により、共和制が発足し、これにより社会主義の道を歩むことになった。
1980年、親国ソ連の経済危機とペレストロイカの波を大きく受け、陰りが見え始める。
1989年、ベルリンの壁が崩壊した後、民主制の道を歩むこととなった。
2007年にEUに加盟。

因みにヨーグルトの一人当たりの年間消費量は世界一。
ブルガリア語はキリル文字で表されていて、現在キリル文字が使われているのはあとロシア語のみ。

注意事項としてブルガリアでは「はい」の時に首を横に振り、「いいえ」の時は首を下に振ると言われた。

2日目 4月5日 (8度)
🚌 リラへ向かう。

リラの僧院
ソフィアから南へ約130kmのリラ山脈の山間にたたずむ。
15~19世紀のオスマントルコの支配下で唯一キリスト教が黙認されていた場所。
10世紀の創立で現在の建物は19世紀に修復されたもので世界遺産に登録をされている。
外壁や天井全体に描かれた壁画やイコンはブルガリア正教独特のものである。
敷地内の歴史博物館にある「ラファエルの十字架」は聖書の物語や細かい人物が彫り込まれていて必見。

ブルガリアと言えば、ここというイメージだったが、それほど広くはない。

リラの僧院

移動中のコチェリノボという村ではコウノトリがたくさんいて、懸命に巣作りをしていた。

昼食: マス料理とアイリャン(ヨーグルトドリンク)

ボヤナ教会
ソフィアの中心から南西8kmの所に建つ。
建物は11世紀に建設された後、13世紀と19世紀に増改築を重ねている。
内部の側面を飾る1259年制作のフレスコ画(最後の晩餐、全能のキリスト、キリストの変容など89もの場面)は世界遺産に登録をされている。

外ではナイチンゲールがとても綺麗な声で囀っていた。

午後はソフィア市内観光

アレクサンドル・ネフスキー寺院
ネオ・ビザンチン様式のブルガリア正教会の大聖堂で1912年に完成。
黄金のドーム、青緑色の屋根とベージュの壁がたいへん美しい。

聖ペトカ地下協会
11世紀のブルガリアの聖人ペトカを祀るブルガリア正教会の教会。
14世紀のオスマン帝国の支配の下では周囲のイスラム教寺院よりも高い建物が建てられなかった為、半地下形式で建築。
内部の地下聖堂には16世紀のフレスコ画がある。

聖ゲオルギ教会
ソフィア最古の教会でローマ帝国時代の4世紀の創建。
珍しい円形の建物の内部には10世紀から14世紀にかけてのフレスコ画がある。
周囲には浴場跡などのローマ遺跡が残っている。

夕食: ショプスカサラダ(白チーズがかかっている)、郷土料理とラキア(ブルガリアのお酒)

🛏 ソフィア泊

3日目 4月6日
🚌 ブルガリア第2の都市プロヴディフへ向かう。

プロヴディフ
ソフィアから東へ約140kmのバルカン山脈とロドビ山脈に挟まれたトラキア平原のほぼ中央に位置している。B.C.19世紀には黄金伝説で有名なトラキア人が住んでいた。
ギリシャ時代にはアレキサンダー大王の父、フィリッポス2世にちなんで「フィリポポリス」と呼ばれていた。また、セルビアのベオグラードとトルコのイスタンブールを結ぶ街道の重要地点となっていた。

ローマ円形劇場跡
丘の上に建っており、眺めがよい。3000人が収容できる。
現役で使われている。

トリモンティウム(3つの丘)
旧市街のことで起伏が多く、石畳の坂道だらけだが、赤茶色の屋根の歴史的な家々が続いている。

昼食: タラトル(冷たいヨーグルトスープ)とムサカ(ひき肉と卵などにチーズをのせて焼いた料理)

カザンラク
ブルガリアは世界屈指のバラの生産国でその香りと品質を誇るダマスクローズのオイルは有名。
毎年6月には「バラ祭り」が開催される。この時期になると日本人がどっと押し寄せる風景は何度も出発前から見ていたし、周りの旅友達も何人か既に行ったことがある。

バラ博物館
ありゃま、本日は閉館だと。
慌ててガイドさんが係を呼びに行くとショップのみを我々の為に開けてくれるという。
日本人が「鴨がネギを背負ってきた」と言わんばかりにニコニコしながら鍵を持ってきた。
ガイドさんの恩着せがましい言い方に購買意欲も失せてしまった。
本来であれば、ローズオイルの製造過程などが見られるはずだったのに・・・
現地手配会社と日本の旅行会社J○○の連絡ミスのようだ。しかし、返金はなかったので、おかしいぞ。

トラキア人の墳墓
第二次世界大戦中の1944年4月に塹壕を掘っていた兵士達が偶然発見した。
そこには鮮やかなフレスコ画で飾られた墓があったのだ。
発見された時はすでに宝物は盗掘されていたが、極彩色に彩られた玄室は残っていた。
後にこれは失われたB.C.5世紀ごろの古代王国のネクロポリス(共同墓地)であることが判明する。1979年に世界遺産に登録をされた。

我々が目にすることができたのは、隣接する建物の中にあるレプリカだった。

シプカ峠を越えてヴェリコ・タルノヴォ
5千年を超える歴史を持つ古都でブルガリアでも最古の町の一つ。
町の中心となるのはブルガリアの母広場でここから東へ行くと旧市街が広がっている。

ツァレベェッツの丘
旧市街のメインストリートを進んでいくと、ここに着く。
緑に囲まれた丘の上には大主教区教会が建っており、ここからの眺めが素晴らしい。
第二次ブルガリア帝国時代には、この丘全体が皇族や大主教の住まいとしての宮殿だった場所で、オスマン帝国時代に攻撃されて、現在は城壁のみが残っている。

因みに相撲の琴欧州はここから4km先のジュルニツァという町の出身だそう。

夕食: カヴァルマ(豚肉と野菜のブラウンシチューでとても美味しかった)

ホテルが坂に沿って建っているので、エレベーターの表示が面白い。
地上は0から3階までと地下は―1から―8階まである。

🛏 ヴェリコ・タルノヴォ泊

4日目 4月7日 (10度)
🚌 一路、国境を越え、ルーマニアのシナイアへ向かう。

アルバナシ村
ヴェリコ・タルノヴォから北へわずか4kmの場所にある。
昔ながらの家並みが続き、タイムスリップをしたかのような雰囲気を醸し出している。
お屋敷が80余り存在していて、その内36の家が国の文化財に指定されている。
最も美しい家はオスマン帝国時代のヴェリコ・タルノヴォ総督の親戚にあたる女性の家。
半ドーム状の生誕協会の内部は素晴らしいイコンと壁画で埋め尽くされている。

ルセ(国境の町でブルガリア第4の都市)
11:15着
ドナウ川の南岸にあり、川がもう少し東へ流れると黒海へ出る。
ソフィアからは約280kmの距離で、ルーマニアの首都ブカレストまでは約80km。

ここで並んで出国手続きをしているとある青年から「先に行かせてくれないか」と声をかけられた。「我々はグループで、遅れると迷惑がかかるので悪いけど、それはできない」と断った。すると大震災の様子や放射能の被害などについて質問をしてきた。
「皆が一丸となって復興させようと努力しているよ」と答えておいた。

ドナウ川に架かる橋(友情の橋と言い、約2km)を渡ってルーマニアへ入国。

国の説明
第二次世界大戦でルーマニアはソ連側につき、社会主義に傾倒していく。
1965年にチャウチェスクが政権を握り、1974年には初代大統領に選出された。
1989年12月に民主主義革命が起こり、チャウチェスク夫妻は処刑され、1990年には初の自由選挙が行われた。
私は彼らの処刑の様子をTVのニュースで見たが、ライフルで撃たれて残忍であった。現在の日本ではあのような映像は流さないであろう。
現在は民主主義国家であり、EUにも加盟している。

ブカレストで昼食を済ませ、一路、シナイアへ。
シナイア
夏季は避暑地として冬季はスキーリゾート地として人気がある自然豊かな町。

ペレシュ城
1875年、カロル1世が夏の離宮としてドイツ・ルネッサンス様式で建設。
彼は自分の威厳を保つために寝る時も王冠を被っていたと伝わるほどの人物。
ルーマニアで最も美しい城と言われている。
中には部屋が160室もあり、中世の美術品や武器などが展示されている。
シナイア渓谷との外観もマッチしていて素晴らしい風景で、庭にある数々の彫刻も見ごたえがある。

ペレシュ城

シナイア僧院
1695年にワラキア公によってルーマニアのブルンコベアヌ様式で建立。
名称はシナイ山に因む。祭壇、天井や壁には古いイコンやフレスコ画が描かれており、キリスト教徒でなくても荘厳な気持ちになる。

夕食: サルマーレ(ルーマニア風ロールキャベツ)

ホテルは100年の歴史があり、オリエント急行もすぐ下の駅に止まって客はこのホテルに宿泊したそうだ。

🛏 シナイア泊

5日目 4月8日
🚌 シギショアラへ向かう。

シギショアラ歴史地区
伝統工芸と文芸の中心地として有名な町で1280年の文献に登場している。
14世紀から17世紀にかけて町をぐるっと囲むように要塞が造られていき、14の見張り塔がある。1999年に世界遺産に登録をされている。

シギショアラ

時計塔
14世紀に建設され、高さは64m。市の長老たちの話し合いの場として使われてきた。
時計が取り付けられたのは1648年でカラクリ時計として現在でも動いている。
現在はシギショアラの歴史に関する記念物や書物(ナポレオンから薬局主にあてられた手紙)などを展示する博物館となっている。

山上教会
旧市街で最も高い場所にあるので、屋根に覆われた木製の階段を上っていく。
14世紀に建築された協会だが、中のイコンなどは15~17世紀のもの。
聖歌隊の席の南側は彫刻で素晴らしい装飾がされている。

ヴラド・ドラクルの家
小説「吸血鬼ドラキュラ」のモデルと言われるヴラド3世は、かつてのルーマニア南部にあったワラキア公国の君主だった。1448年から1476年の間に敵を拷問するなど暴虐の限りを尽くした。「串刺し公ヴラド」としてその生涯で8万人以上の人々の命を奪った。
かたやオスマン帝国やドイツからルーマニアを守った人物として国民的なヒーローとしての顔も持つ。

昼食: 現在はここがレストランになっていて、赤い料理が出てくる。

サスキズ村(シギショアラから約20km)
要塞教会
教会そのものを要塞化して周辺の遊牧民たちからの攻撃に備えたという何とも珍しい教会である。世界遺産に登録をされている。
サシ人というドイツ系の人達によって14世紀に建設され、多い時には要塞教会は600もあったとか。現在は300が残っている。

広~い空を見上げると飛行機雲が縦横無尽にできており、ヨーロッパって忙しいんだなあと感じた。

ブラショフ
ルーマニア第2の都市で中世の街並みが残り、山並みに囲まれた自然豊かな古都である。
ドイツからやってきたザクセン人によって建設された町なので、ドイツ風の建築物が建ち並ぶ。

ブラショフ

黒の教会
ゴシック様式の建築でルーテル教会とも呼ばれる。
1689年のオスマン帝国との戦いのさ中に大火に見舞われて外壁が真っ黒になった事からこう呼ばれるようになった。
中にはルーマニア最大のパイプオルガンがあり、4千本ものパイプと4つの鍵盤が備わっている。
高さ65mの石造りの鐘楼は町のどこからでも見ることができる。
中の釣り鐘は重さが約6千kgあるとか。

スファトゥルイ広場
広場の中心に建つのは1420年建立の旧市庁舎で現在は歴史博物館となっている。

スケイ門
町がドイツ系移民によって建設された際、立ち退かされた元の住民のルーマニア人達が住んでいた町との間にある。
へ~、こんな酷い事をしていたんだ・・・

黒の塔と白い塔
旧市街のはずれに行くと小川が流れており、川沿いに登った場所にある。

夕食: チョルバ(スープ)とパパナッシュ(ブラショフ発祥のチーズ入りドーナツ風のデザート)他
ルーマニア民族舞踊を見ながら。

🛏 ブラショフ泊

6日目 4月9日
🚌 ブラン城

ブラショフから南西へ約30kmのプチェジ山麓にある岩山に聳えている。
ドラキュラの居城のモデルとなった
もともとは13世紀にドイツ騎士団が敵からの攻撃から守るために要塞を築いたことが始まり。その後、ヴラド1世がここを居城としたので、ヴラド3世が住んでいたのではない。
それで、中には中世の生活がそのまま再現されている。
地下牢には拷問道具なども展示されている。

中に入れるとばかり思っていたら、ガイドさんが「拷問の様子があまりにもショックで亡くなった人がいるので現在は入れません」という事で残念であった。

ブラン城

昼食: トゥキトゥーラ(豚肉料理)

ブカレスト(ルーマニアの首都)市内観光
国民の館
床延べ面積33万平方メートルでアメリカのペンタゴンに次いで2番目に大きな規模を誇る。地上10階、地下4階で3000もの部屋を有し、かつての独裁者チェウチェスク大統領が建設した巨大な宮殿。
現在は国会議事堂や政党のオフィスや美術館などが入っている。
チャウチェスク大統領が失脚した際、壊すことも考えたそうだが、そちらの方が費用が掛かりすぎるとの事で7割がた完成していたこともあり、そのまま工事を続行した。
未だに完成はしていないそうだ。

ここも入れませんだと。残念無念・・・

国民の館

大主教教会
1655年に建てられたギリシャ正教会で統一ルーマニア公国の成立後、ルーマニア正教会となった。正面の壁にはキリストと12使徒のモザイク画が飾られている。

革命広場
1989年12月にチャウチェスク大統領が最後の演説を行った旧共産党本部ビルがある。
集まった10万もの民衆に向けて2階のバルコニーから演説をし、ヘリコプターで逃げようとしたが、失敗して銃殺刑になった。
と同時に警察官や反対派との間で多くの市民が犠牲になった。

クレツレスク教会
1722年建築のレンガ造りの教会でルーマニア正教会独自の様式となっている。
内部には建築当時に描かれた緻密なフレスコ画が天井、壁などに隙間なく描かれている。

凱旋門
1922年の第1次世界大戦の勝利を祝って建てられた。
パリの凱旋門をモデルにしてデザインされたものなので、そっくり。

余談ー1
1992年にマイケル・ジャクソンが2回目のワールドツアーの最後の地としてブカレストを選びました。理由は1989年の革命から3年たっても多くの恵まれない子供達の貧困が問題となっていたからです。
そこまではよかったのですが、国立競技場でコンサートを開いた彼の口から飛び出したのは「Hello, Budapest」だったのです。国民はとても残念に思ったとガイドさんが言っていました。
ブダペストとブカレストは似ているけど、そこは間違えてはいけませんね。

余談ー2
女性の間で大人気だったのが「ジェロビタール」というアンチエイジング化粧品です。
これはチャウチェスク大統領夫人が自分の若返りの為に国家プロジェクトとして作らせたとか。
日本で買うとベラボーに高いけど、ここで買うと10分の1以下でした。

夕食: ミテイティ(ハンバーグ)とルーマニアワイン

🛏 ブカレスト泊

7日目 4月10日
帰国の為空港へ

✈ 11:20 発 ブカレスト: オーストリア航空
  12:00 着 ウィーン

✈ 13:30 発 ウィーン: 同上

8日目 4月11日
  06:15 着 ソウル

✈ 07:15 発 ソウル: 同上
  09:25 着 成田
今回は旧社会主義の国々だったこともあって融通が利かないことが多々あり、そこが西欧とは違うと感じました。

写真は海外旅行50回目くらいでやめたので、旅行会社さんのパンフレットを引用させてもらいました。お礼申し上げます。

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