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「失われた時を求めて」と「プルーストを読む生活」を読む 2

失われた時を求めて

コンブレーの続き。マドレーヌのくだりが出てきた。「失われた時を求めて」のWikipediaを見たとき、作中における特徴的な回想としてマドレーヌのくだりが記述されていた。これは物語の核心めいたところで登場するのかと思ったら、第一章で早速出てきた。このマドレーヌのくだりは、なんというか、ここだけもう一度読み返してもいいと思う部分だった。人間の、人生の味わい、幸福の本質ではないかと思う。

134ページまで読んだ。区切りはない。レオニ大叔母宅の、フランソワーズが紹介されている。「失われた時を求めて」では、街や土地といった物語の舞台を細かく描写している。僕は設定オタクなところがあり、この舞台設定を忠実に描くことで、街やその世界の雰囲気をしっかりとした形あるものとして想像させてくれるのが嬉しい。小説内の物語世界が、確かにそこにある世界として頭の中に構築される。

プルーストを読む生活

「プルーストを読む生活」は「失われた時を求めて」の読書日記。「失われた時を求めて」を読み進めた分だけ、同時並行で「プルーストを読む生活」を読もうと思っていた。しかし、「プルーストを読む生活」では最初から既に144ページまで進んでおり、早速追い抜かれてしまったということを前回書いた。

「プルーストを読む生活」内で読まれている「失われた時を求めて」は、確かちくま文庫だった。僕が読んでいるのは岩波文庫。ちくま版の「失われた時を求めて」は全10巻で岩波は14巻。巻の区切りも総ページ数も全く違う。だから「プルーストを読む生活」内で進んだページ数を、岩波版を読んでいる僕が同じページ数だけ追いかけることには、全く意味がなかった。別の本を読んでいるのだから。

ページ数を追いかけて同時並行で進めることは無理だから、章区切りかどこかで帳尻を合わせることにしよう。そうでもしないと、せっかく同時に読み始めたのにどちらかを先に読み終えてしまう。

さて、「プルーストを読む生活」ではこの本が書かれるにあたり、モデルになった本が二冊出てきた。友田とん「百年の孤独を代わりに読む」と、宮沢章夫「時間のかかる読書」。どちらも読んだことない。

ガルシア・マルケスは短いのだけ読んだことがある。「予告された殺人の記録」と「エレンディラ」。どちらも文庫化されており、長さも価格も、購入して読むまでのハードルが低かった。好き嫌いで言うと普通。ラテンアメリカ文学自体に全然馴染みがない。しかし、「百年の孤独」を読まずしてガルシア・マルケスを語れるのか、という気持ちは大いにある。カラマーゾフを読まなくても、ドストエフスキーは語れる。ライ麦畑を読まずに、サリンジャーは語れない。

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